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 陽介は、菜々子の病室近くにある長椅子に一人座っていた。貫徹のせいでしょぼしょぼする目を擦りつつ、壁に疲弊した身体を凭れさせる。窓から見える外は相変わらず霧に覆われて、景色がよく見えない。ままだ
 あれからまだ一日も経ってないんだよな。陽介はすぐ側の閉められた扉に目をやる。
 菜々子の病態が急変したと病院に駆け込んでから、あまりに沢山のことが起こった。そのせいで陽介はふと、夢を見ていたような不思議な感覚に囚われる。もしかしてこれは夢で、一度瞼を閉じて開ければ、自分の部屋のベッドで寝てるんじゃないか。ついそう思ってしまう。
 だけどここにいる自分は、夢なんかじゃない。陽介はぺたりと掌で心臓の辺りを押さえた。影を受け入れきれず、ずっと抱えていた空疎さが嘘のように消えている。そしてようやく、心の底で持て余していた気持ちをも受け入れられそうな余裕が、やっと生まれてきていた。
 胸に当てていた手を太股に落とし、少し身を乗り出して扉を覗き込んだ。それとほぼ同時にその扉がゆっくり開いていく。
 のろのろとした足取りで日向が出てくる。後ろ手にスライドさせた扉を閉め、ぼうっと立ち尽くしていた。
 茫然自失としている日向に「……橿宮?」と陽介は恐る恐る声をかける。すると日向の肩が跳ね上がり、弾かれたように陽介を振り返った。長椅子に手を突いて心配する姿をじっと凝視し、いきなり崩れ落ちるようにその場へしゃがみ込んでしまう。
「ちょ……、橿宮!?」
 仰天した陽介は慌てて日向の側に寄った。屈んで「大丈夫か?」と聞くが、俯いて手で隠された顔はどんな表情をしてるのか窺えない。
 どうするか迷う陽介の手が、戸惑いながら日向の肩に伸びる。
「とりあえず座ろう」
 そっと肩を抱いて立たせ、日向を座っていた長椅子まで連れて座らせた。その隣に座り、陽介は敢えてそっとしておく。時に人は見られたくない顔だってあるのだ。
「……あの時、目の前が暗くなったんだ」
 身を屈め、手で顔を隠していた日向がくぐもった声で言った。
「音とか色とか何もわからなくなって、目の前で何が起こったのかわからなくて……。世界が死ぬってこんな感じなのかな、って頭の隅でぼんやり考えてた」
「……うん」
 陽介は頷き「でもさ」と言った。
「菜々子ちゃんは生きてる」
「うん」
 陽介の言葉を噛み締めるように、頷いた日向の声が震えた。
「よかった。本当に……よかった……」
 それきり日向は口を閉ざす。
 陽介は黙って日向の隣にいた。時折堪えきれない嗚咽が聞こえてくる。ぐずぐずと洟を啜る音や震える背中が、とても愛おしく感じた。腕を伸ばし、支えるようにその肩を抱く。優しくリズムをつけながら支えている箇所を叩き、日向が落ち着くのを待つ。
 ああ、なんかあの時みたい。夏の鮫川で日向に慰められた時を思い出す。あの時は陽介が泣いていた。しかし今は、その反対で慰める立場になっている。
 溢れる涙を止められずずっと泣いていた陽介を、日向は側にいて受け止めてくれた。だから、今度は俺が泣き止むまで側にいたい。してくれたことをかえしたい。
 陽介は肩を抱く手に力を込める。


「……ごめん。いきなり」
 ようやく落ち着いたのか、顔を上げた日向が頬を濡らす涙を拭いながら謝った。ずっと泣いたせいか、目が赤くなっている。放っておいたら腫れそうだ。
 陽介は「いいってこんぐらい別に」と片目をつむって言いながら、鼻を啜る顔を見る。涙でぐちゃぐちゃになった表情はいつもの日向と違う雰囲気だったが、幾分吹っ切れたようにも感じた。
「……すっきりした?」
「すっきりした」
 日向が答え、はあっと大きな息を吐く。昨日とはまるで違う憑き物が落ちたような顔つきになり、陽介は安心した。だがすぐに表情を引き締めて腰を上げると、日向の前に立つ。
「橿宮」
 真剣な表情の陽介を日向の赤い目が見上げた。
「花村?」
「俺を――殴ってくれないか」
 言った言葉に日向が「え?」と目を丸くした。
「俺な、あの時お前に頷いてほしかったんだ」
 陽介は生田目の病室で言い争った時の心情を正直に吐露する。
「だけどあんなこと言われてすごいショックだった。俺のこと認めてくれないみたいでさ。お前にだけは頷いてほしかったんだ。俺のやろうとしたことを正当化してほしかった。……改めて考えると馬鹿だったよな、俺」
 自嘲気味に陽介は笑う。あの時の自分は本当にどうしようもなかった。
「そんなことしたら、お前も道連れにしちまうのにな」
 これまでの事件に関わった加害者――久保や生田目。そしてまだ見えない真犯人。彼等と同等のところまで日向を堕とす。それは事件を解決しようと進んできた今までを踏みにじることに等しい。
「お前は、止めようとしてくれたのに。……今回のことは俺の勝手が原因だ。だから頼む」
 頭を下げて請う陽介を日向は黙して見ていたが、やがて小さく尋ね返す。
「……思い切りやっていいのか」
 平淡な感情を抑えた声に、陽介は頭を下げたまま頷いた。
「ああ。遠慮はなしで頼む。おもいっきりやってくれ」
「わかった」
 日向が立ち上がり「顔上げて」と陽介に指示を出す。言われるがまま従うと、胸倉を掴まれた。
「歯、喰いしばっとけ」
 せめてもの優しさか。そう前もって言った日向の言葉を聞いて反射的に奥歯を噛み締めた陽介に向けられたものは――振りかぶられた拳ではなく、日向の頭だった。
 視界一杯に日向の髪の色が広がる。
「――っ!?」
 ごつん、と鈍い音が頭に響いた。額に頭突きを喰らい、陽介の目に星が飛ぶ。あまりの痛さに額を押さえ陽介は床に尻餅をついてしまった。しかし痛いのは日向も同じだったらしい。頭突きをした衝撃で再び涙を浮かべながら、同じく額を摩っている。
 痛みにお互い悶えながら、日向が陽介を見て「痛み分け」と赤くなった額を見せて笑った。
「痛み分け?」
 床から起き上がった陽介が首を傾げる。
「お前は俺や菜々子を理由にして生田目を裁こうとした。だけどそれは俺も同じだったんだ。俺もお前の取った行動を理由にしてあんな行動を取ったんだ。どっちも悪いから。だから、痛み分け」
「橿宮……」
 呆然と見つめる陽介に日向は小さく笑った。腰を上げ陽介の真正面に立って言う。
「ありがとう花村。あの時来てくれて嬉しかった。すごくすごく嬉しかったよ」
 重ねて言われる礼に、陽介はむず痒さを感じる。そこまで強く言われると何だか恥ずかしくなり「そんなことねえって」とぶんぶん首を振って照れた。
「それにまだ礼を言われるのとか早いって。だってまだ終わってないんだし」
 生田目のことについて謎が残っている。それに消えたクマのことも気掛かりだ。やらなければいけないことが残っている。事件はまだ終わっていない。
 うん、と日向が真面目な顔をして頷いた。
「花村の言うとおり全部終わってない。でももし、これからも真実に繋がる何かが潰れても見えなくなっても……俺はもう諦めたくない。だから俺もお前ももう間違えないように、手を貸してくれ、花村」
 今回のことで日向も何か乗り越えたんだろう。はっきりとした意志が見える声が言葉を紡ぐと同時に、手を伸ばされた。
 陽介はその手をじっと見つめ「ああ」と握りしめる。
「絶対に終わらせよう。菜々子や遼太郎さん、小西先輩の為にも」
「それから――俺たちの為にも、な」
 もう今回の事件で誰にも悲しい思いはさせたくない。真犯人を捕まえて全てを終わらせる。
 お互い見つめ合う瞳に迷いはない。二人の思いが通じ合い、握りしめる手の力が強まった。


 生田目がいる病院とはいえ、焦らず行動に移すべき。陽介と日向はこれまでの情報を整理するためにジュネスへ向かうことになった。フードコートで仲間が二人を待ってる。
「あ、そうだ」
 病院を出たところで急に日向が立ち止まった。
「言い忘れてたことがあったんだ」
「は?」
 いきなり止まれず数歩前に行った陽介が日向を振り向く。
「言い忘れてたって?」
「うん。花村が俺のところに来てくれた時のことでさ」
「いや、もういいって!」
 ありがとう、と言われただけでもくすぐったかったのに。これ以上何があるというのか。
 戦々恐々として身構える姿に「そんなに怯えなくてもいいのに」と日向は苦笑する。
「そんなだからガッカリ王子って言われると思うけど」
「よ、余計なお世話だよっ!」
 ほっとけ、と陽介は口を尖らせた。悲しいかな、稲羽に来てから褒められることは滅多になく、つい懐疑心を持ってしまう。
 そんな陽介に日向は言った。
「でもさ、あの時花村すごくかっこよくてヒーローみたいだった」
 朗らかに笑う。
「花村は――俺のヒーローだよ」
「……っ!?」
 日向の言葉に、陽介の顔がみるみるうちに赤くなる。熱い。物凄く顔が熱い。口をぱくぱくと開閉し、何もないところで躓いて地面に転がってしまった。
 まさか転ぶまでとは思わなかったのか「花村!?」と日向の慌てる声が聞こえた。直球過ぎて腰が砕けそうだ。いや現に砕けているけども。
「……参ったな」
 手で口元を覆う。
 こんなんで全部終わったら言えるのだろうか。
 だけど決めたんだ。
 全部終わらせよう。それで言うんだ。
 ――俺の、気持ちを。
 日向が転んだままの陽介を心配そうに覗き込む。
 不安な表情に陽介は「大丈夫だ」と安心させるように笑った。


09/02/27

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