「謝るな」
ごめん、と謝り泣く陽介の頭に日向が手を伸ばし、ゆっくりその茶色い髪を撫でた。
だが、それを拒むように陽介は頭を振り「でも俺、お前を巻き込んでおいて、自分だけ逃げてたのに……」と自分を責める。日向だって、もっと自分に対して批難してもおかしくないだろう。あんな酷い目に合わせておいて、今更許してくれと、請うつもりもない。どんなに厳しく叱責されても自分はそれを受けるべきなのだ、と覚悟を決めていた。
「いいんだ。花村が謝る必要なんてないから」
だが日向は穏やかな、怒りなど全く感じさせない声音で言う。
「それに俺は巻き込まれたとも思っていない」
「……え?」
陽介は顔を上げ、体ごと日向に向き直った。ようやく顔を見せてくれた陽介に、日向はさっきの声と同様に、穏やかな微笑みをそっと浮かべる。
すん、と洟を啜り、袖で涙を擦り拭った陽介は、少し顔を近づけて日向を凝視した。
「あの時――小西先輩が遺体で見つかった日、テレビに行きたいと言いだしたのは確かに花村だ」
「……ああ」
胸に針を刺すような痛みに、陽介は気まずさから俯き加減に頷いた。やっぱり、俺のせいじゃんか。
再び自責の念に沈みかけた陽介は、しかし次に言った日向の一言で大きく目を見開く。
「でも覚えていないか? あの時テレビに入れる力を持ってたのは“俺だけ”だってこと」
「――っ!?」
「だからテレビの中に行けるかどうかは、俺の気持ち一つにかかってた。俺は頼むお前の手を、振り払うことも出来たんだよ」
驚愕を張り付けた陽介は、笑んだままの日向に眼を戻した。確かにあの時点で、テレビに入れるのは日向だけ。陽介はまだ、ペルソナをこの身に宿していない。自分一人ではテレビに入れないのだ。
だが陽介は、はいそうですか、と納得するわけにはいかなかった。日向の胸元を掴み、必死になって言う。
「でも、そうだとしても、俺が無理に連れてってくれって頼んだから……」
「花村」
自分のせいだ、と言いたそうに返す陽介の言葉を、日向は遮った。胸元を掴む陽介の手に、自分のそれを重ねて外させる。
「それ以上自分を悪く言ったりしたら、それこそ俺は怒るぞ」
そう言って、日向は軽く眉を寄せた。しかしそれは、すぐ苦笑に取ってかわった。そして陽介の手を離し、後ろのテーブルへ背を凭れると、雨降る曇天を見上げる。
「あの時花村に頼まれて、俺は迷った。実は、正直断ろうかとも思ったよ」
「え?」
初耳だった。陽介は驚いて、雨空を見上げる相棒の横顔を見た。まさかそんなことを考えていたなんて。困った奴は放っておけないような言動を数々見てきた陽介としては、些か信じられない。
正直に思ったことを口にすれば「俺はそんなに人間出来ていないよ」と日向が笑った。いつもとは違う、皮肉そうな感じで。
「んなこと言っても、でも、お前は結局来てくれたじゃんか。断ろうと思ってたんだろ」
「うん。そうだな」
日向は頷く。
「事件を追いかけるきっかけを作ったのは花村だ。だけど、勘違いするなよ。それについていくと、そう決めたのは、俺だ。だからお前のせいで巻き込まれたんじゃない。俺が自分から望んで飛び込んだんだ」
空を見上げ毅然と言い放つ日向に、陽介は脱帽する。軽く両手を上げ、降参の意を示した。こいつは本当に、とんでもない奴だ。
だけど、同時にこうも思う。
「……お前、馬鹿だろ?」
「それ、影にも言われた」
曇天に向けた視線を陽介に移し、日向は僅かに苦笑する。
『――お前は本当にコイツを助ける価値があると、まだ思うのか?』
二人きりで入った雪子姫の城。そこでいきなり現れた陽介の影は、聞きたいことがあると言い、そう日向に尋ねた。
日向の手を掴む手はそのままに、もう片方の手で、影は宿主――陽介の心臓の辺りをぺたりと押さえる。あの時止めようとした鼓動は、目の前の男によって阻止されて、今も動き続けている。
だけど。
『アイツは俺を全部は受け入れられなかった。その結果、俺はこうしてお前の前に出てこれて、記憶の一部が欠如してしまった。だからアイツは知らないんだ。この手で、お前を殺しかけてたってこと』
影は口許を上げて愉快そうに笑った。
『可哀相になぁ。アイツはお前に命を救われたも同然なのに、こうして自分から距離を置いている』
「それこそ、その記憶がないからだろう? 覚えていないなら仕方ないと思うけど」
『だとしても、だ。アイツが“特別”でありたいからと、向きあわなきゃいけないことから逃げているのは紛れも無い事実だ』
こうしてここにいることすらも、陽介にとっては逃げ道だと影は思う。
テレビの中の世界。
それを利用して人を殺そうとする犯人を見つけだすこと。
そして、ペルソナ。
それらすべて非日常のモノ。関わっている間、現実を見なくて済む。
本当の自分がどれだけつまらなく、退屈であるかを陽介は心のどこかで認識しているから。
だから、逃げた。平和を脅かす殺人犯を追いかけることを理由にして。退屈な自分をなかったことにしたかった。
『お前はどう思ってるんだ? あんな目に合わせておいて、今は自分から距離を取る。そんな勝手な奴を、お前は救う価値があるってまだ言うのか?』
黄色の双眸を鋭くさせた影を、日向は黙して見つめた。そして、はっきりと頷く。
「――あるよ」
迷いなく言い切られ、影は虚をつかれたように呆然と日向を見た。そして胸に当てていた手で顔を覆い、ははっ、と力が抜けた笑い声を上げる。
『……そこまではっきり言うなんてな。お前、馬鹿だろ。思い出さなくてムカつくとかねーの?』
「それはないよ。今の陽介にそれは酷だろう」
商店街を潰すからと、ジュネス店長の息子というだけで、一方的に疎まれてしまう立場。慕っていた人の、突然の死。その人が、テレビの中の世界にほうり込まれたことにより生まれた場所で、見てしまった彼女にとっての、現実。
それだけでも陽介からすれば、十分な痛みになるだろう。
「いつかは思い出さなきゃいけないことだろうけど。今はそっとしておいてやりたいんだ」
忘れていることを思い出して、苦しんでほしくない。
『そうか』
影は瞼を伏せ、小さく息をついた。掴んでいる日向の手を見つめ、指先で肌の感触を擦り確かめる。指先から伝わる温もりは、あの時と変わっていない。
『でも俺は覚えている。あの時、お前が言ったことも。……探すって言ったよな。どうして俺を助ける理由があるのか。その価値を』
「うん」
『じゃあ探してくれよ。後付けでも構わない。どうして花村陽介を見て、死にそうになりながらもお前が助けてくれたのは何故か。俺は、知りたい』
「――影にそう聞かれて、俺はずっと考えてた」
自分の心臓の辺りを押さえ、日向は言った。
「漠然としたものは、その時からずっとあったんだ。でもなかなか形にならなくて。でも、昨日のことがあって、ようやくわかった気がしたんだ」
胸の上に当てていた手を、ぎゅっと握りしめる。
「あの時は、ただ花村を死なせたくない一心だった。理由なんてないよ。俺は、お前を助けたいと思った。――それだけ」
「……橿宮」
「でも今聞かれたら、違うことを言うけど」
そう言って日向は陽介の顔を見て小さく笑った。濡れた頬を裾で強く拭った目許は赤くなり、それでもぼろぼろと眼から涙が零れている。
「ひどい顔だ」
「うっ、うっせーな! 何か止まんねーんだからしょうがないだろ」
からかわれ、陽介は憮然としながらどうにか涙を止めようと、服の袖で何度も眼を擦った。だけど、涙は止まるどころか、勢いを増すようだった。ずっと耐えていた堰が決壊したように、ぼろぼろと零れる。
「あああ、なんかもう、涙腺がぶっ壊れたみてー……」
泣き顔を見られないように俯き、陽介はぼやいた。ああ、もう、俺って格好悪い。鼻も詰まるし。やってられるか。
「……」
ぐずぐずと泣く陽介の隣で、日向の動く気配がした。頭を肩口へ引き寄せられ、ぽんぽんと背中を叩かれる。まるで泣く子供をあやすような手つきで。
「今は泣きたい感じなんだよ、陽介の中で。だから、泣けばいいと思う」
そう言う日向が陽介のほうを向かないのは、彼なりの配慮なんだろう。ただ、背中をあやす手は止まることはなく。
「……子供扱いすんなっての」
陽介は思わず泣きながら、笑ってしまった。
泣き続けようやく涙が落ち着いた頃、陽介は腫れた目許がバレないよう、俯きがちに日向をちらりと見た。
「……なぁ」
「ん?」
「影の言ってた理由、見つけたんだろ?」
昨日女子高生を追い払った後日向は、俺も見つけたから、と言っていた。あの時は何のことか分からなかったが、恐らくその時、影に尋ねられた問いの答えが見つかったんだろう。
「――教えてくれよ」
緊張しながら聞いた陽介とは対照的に、「うん」と日向はさっぱりとした声で返した。
陽介の肩に回していた手を離し、向き直る。
そして陽介をまっすぐに見つめて、言った。
「俺、花村が好きだ」
「――――へ?」
いつの間にか降っていた雨は止み、雲間から空が見える。
「お前が好きだって言ったんだよ。――花村」
いきなりの告白に呆然とする陽介を見て、日向はその空の色のように、清々しい笑顔を浮かべた。