ざらざらとテレビの砂嵐のような画面から、映像がだんだんはっきりするように、その記憶は陽介の中で形を成した。渦を巻くように、どす黒い感情や今まで押さえ込んでいた不満が、身体の中で爆発したように、苦しい。
今まで影の記憶をペルソナとともに受け入れた仲間たちは、こんなキツいものに耐えていたのか。
重くて、しんどいような衝撃が、直接心を抉るような。テレビに放り込まれ、助け出された雪子や完二らが、しばらく動けなかったのも無理はない。
そんな他人のそれを、日向はずっと、抱えてくれていた。
そして俺は、抱えてくれたことにも気づかないで、ただ隣に立っているだけ。
初めに見えたのは、周囲から集まってくるシャドウたち。宿主に否定された想いが暴走して、どんどん制御を離れ集まってきたシャドウと同化する。そして自分の力が増長していくのを感じ、薄く笑った。
心を占めるのは、ただ本体を憎いと思う気持ち。
俺はお前。お前は俺。もう一人の自分。
なのに、自分を認めようとしなかった片割れ。なら、俺もお前を否定してやる。お前なんか、いなくなってしまえ。
そして俺は“俺”になるんだ。
シャドウと同化し異質の形を取った影は、その暴走と同時に気絶した宿主のほうに向き直った。冷たく見据え、躊躇いなく地響きを鳴らして近づく。
「……」
しかしそれを阻むように、日向が陽介と影の間に立ち塞がった。無言で影を見上げ、陽介を守るように庇いゴルフクラブを構える。
『なんだ、邪魔しようってぇのか?』
退けよ、と影は凄む。
『俺はアイツを殺さなきゃなんねーんだ』
「どうして自分を殺す必要がある?」
影の脅しに怯まず、日向がゴルフクラブを構えながら静かに言った。
「お前も、アイツも同じ花村だろう」
『同じなら“俺”を見ないふりするのかよ。“俺”の存在なかったことにして、ずっと押し込めなきゃなんねーのかよ!?』
そしてそのまま、誰にも認められないまま心の底で押し殺されて。
――冗談じゃない。
『俺は俺になるんだ。もうアイツじゃない。俺はアイツを殺して、“俺”になるんだ!』
その為なら。
『邪魔するお前も、ぶっ潰してやる!』
影は高く吠え、前肢を天井すれすれまで高く上げた。勢いをつけ、床へ叩きつけると烈風が吹き荒れる。がたがたと、ガラスや高く積まれたビールケースが揺れた。
「――っ!?」
烈風に煽られ、日向は思わず交差させた両腕で顔を庇った。しかし身体は後ろへよろめき、尻餅をついてしまう。
影がすかさず腕を振り落とす。しかし日向は、素早く横に転がりながら攻撃を躱した。身を翻し、起き上がると同時にペルソナを発動する。眼鏡の奥で揺るぎない眼光を向けた。そして告げる。自分の裡に宿るもう一人の自分の名前を。
「――イザナギ!」
現れた黒衣の男神が咆哮した。虚空から閃く雷が影に落ちる。直撃した影は、痺れて力が入らない。手ごたえを感じた日向は、助走をつけ、跳んだ。
振りかぶったゴルフクラブが、影の身体を凪ぐ。鈍い痛みが身体へ横一文字に走る。
『――クソがッ!』
ナメた真似しやがって。
影は叫びながら、力任せに日向の身体をなぎ払った。日向は吹っ飛び、壁際のビールケースに激突する。その衝撃に、ビールケースが日向の上に雪崩れ落ちた。
「センセイ!」
陽介の側でクマが、泣きそうな声を上げた。崩れたビールケースの山から、日向の足がはみ出し、動かない。
だが、無事を知らせるように、青白い光がビールケースの山から漏れる。その中から現れたイザナギが持っている大振りのナイフを水平に構えると、影に向かって突進した。
影は大きく仰け反ったが、ナイフは影の身体に一筋の傷を走らせる。
『こ……のぉっ!』
影は拳を繰り出す。だが当たる寸前にイザナギは消えてしまった。戻ったのだ。宿主のところに。
影はビールケースのほうを見た。そこに埋もれてたはずの日向がいなくなっている。
どこに。
辺りを見回す。視界の端にちらりと影が横切った。こちらをかい潜るように近づいて。
無言で。
「――っ!」
まるでさっきのイザナギの攻撃をなぞるような、日向の追撃。
しかし影は笑った。
ゴルフクラブの先が半分から先、なくなっていた。折れたもう半分が、宙に弧を描いて床に落ちる。
『……これっぽっちか?』
たいしたことねーな、と影は武器を失った日向を見下す。
舌打ちし、日向は苦々しく先の折れたゴルフクラブを見つめたが、すぐにそれを投げ捨てる。戦闘体勢は崩さない。まだ、諦めていないのだ。息を吸って呼吸を整え、虚空から現れたカードを砕く。
日向は影の攻撃をかわし、風に煽られながらも再びペルソナを発動し続けた。雷を生み出し、刃での一閃を与える。そしてペルソナを喚び出す度に、日向の息はどんどん上がっていった。
その様子に影は直感する。ああ、こいつはまだペルソナを使いこなせていない。それでも向かってくる。なんて馬鹿な奴なんだろう。
でも目の前をうろちょろされて目障りだ。
「イザ――」
『――いい加減ウゼぇんだよ!』
ペルソナを喚びかけた日向に、影は容赦なく烈風を浴びせた。身構える暇もなかった日向の身体が吹き飛ばされ、後ろの冷蔵ケースに頭からぶつかる。がしゃん、とガラスの割れる音が響いた。
飛び散るガラスの破片と、日向の血。赤い色に「センセイ!」とクマの悲痛な声が上がった。
クマの声に応えず、日向はケースに頭を突っ込んだまま、動かない。
やっとくたばったか。
影は酷薄とした眼を、日向から倒れたままの陽介に向ける。クマが、震えながらも陽介の前に立った。
退けよ。
クマに対してそう言うよりも早く、背中に痛みが走った。振り向けば、気がついた日向が喚び出したイザナギが斬り付けていた。
そして尚、日向は立ち上がろうとする。血を流す頭を手で押さえ。ふらふらの足に力を入れる。立っているのもやっとのくせに。
ふつふつと、影の中で苛立ちが沸き出してきた。どうしてそこまで俺の邪魔をするんだ。
『ウゼぇ……。ウゼえよお前』
低く地を這うような声で呟く。
邪魔すんな。
『――邪魔すんじゃねぇ!!』
影は日向の身体を掴んだ。柱に挟むよう押しつけ、きつくその身体を圧迫させる。容赦ない力に、生々しく骨の折れる感触と音がした。
「――う、ぐ、……ぁああぁあっ!!」
辛うじて拘束から逃れた日向の左手が、拘束する影の手に食い込む。激痛に頭を振り、歯を食いしばっていた。
悶え苦しむ日向に、影は狂ったように笑う。
『壊れろ。壊れろよ! 俺の邪魔する奴全部!』
日向を壁に押し付ける力を強くする。
『何もかもウゼえんだよ! つまんねー田舎暮しも、ジュネスの店長の息子だからって陰口叩く奴らも、それ全部隠して外面取り繕ってるアイツも! 全部全部全部!!』
『お前だってそうだ』と影は怒りに歪んだ声で、言葉を吐きつけた。今まで溜め込んでいたことを日向にぶつけるように。
『なんで会って数日の他人なんかにそこまで命張ってんだよ。ヒーロー気取りか? バッカじゃねえの。それにさ、考えてみろよ。アイツはお前を巻き込んだんだぞ。自分の下らない望みのために、てめえの都合で勝手にお前をこの世界に引き込んだんだ。お前を、ここに。この世界に!!』
そうだ、ずっと自分の思うようにやってきたんだ。その為にどうなるかもしれない状況で、他人を巻き込んだ。
田舎で燻っている自分の退屈を、紛らわすために。
『そのくせ見栄っ張りで、虚勢ばかり張って、嫌われることばかり恐れている。そんな奴に、そこまでする価値があんのかよ!?』
「……」
日向が手の中で身じろぎ、ふ、と眼を細めて影を見た。
「あるよ」
『――っ!?』
迷いない日向の答えに、初めて影が戸惑った。こいつ、何を言った?
日向は影の手に立てていた爪をゆっくり戻した。そっと手を伸ばし、優しくいたわるように、自分を殺しかけている影の手を摩る。
「……かなしかった?」
『なっ』
「お前だって花村なのに。見ないふり、なかったふりされて。……自分を、認めてもらえなくて。でも」
苦しそうに咳き込みながら、日向は言った。
「だからって、お前が“お前”を殺したら、もう誰にも見てもらえなくなる。俺はそんなのいやだよ……」
はっきりと影を見る日向を、影は無意識に首を振って否定しようとする。どうして、出会って数日の人間にそこまで言えるのか、わからない。
『お前、どうしてそこまで言えるんだよ。そう思う理由はあんのかよ!? 言えよ!!』
狼狽する影に、日向は「何でだろうな」と小さく笑った。
「それは、分からない。……けど」
影を撫で摩る手から力が抜ける。
「理由が欲しかったら……、俺が……さがして……みるか……ら…………だから……」
言葉は最後まで続かなかった。がくりと項垂れるように俯き、日向は意識を失う。
『な、何だコイツ……。バカじゃねえのか? 何で、何で俺なんかにそんなことが言える……?』
俺は、お前を壊そうとしてたのに。
影は恐がるように日向を床に下ろして解放した。
「センセイ!」
すかさずクマが駆け寄り、どこからか取り出した治癒薬を使う。その様子をぼんやり見ていた影は、いつの間にか陽介の姿に戻っていた。
『――どうして』
影はぐらつく頭を手で押さえ、呆然と呟いた。
つい数日前に会ったばかりなのに。こいつは言った。
いなくなってほしくない。理由が欲しいなら探すから、と。
この男は確かにそう言った。
どうして。
「――どうして、あんなこと言ったんだよ。俺はお前を巻き込んだんだぞ」
日向に背を向けたままの陽介は、俯いて言った。零れた涙が、ぽたぽたと足や地面に落ちていく。
影の記憶を思い出してから、今更のようにあの感触が蘇る。日向を拘束し、壁に押し付けた時の、骨の折れる感触や音。伝わってきた体温は、林間学校の夜見た夢と感じたものと同じだった。
あの夢は、影の記憶の断片だったのだ。それが形を変えて、陽介に言っていた。気のせいなんかじゃない。それは本当にあったことなのだと。
そう思うと全身の肌が粟立つ。
もし、あの時小西先輩がどうして死んでしまったか知りたいんだ、と自分勝手な理由で頼んだせいで、日向を巻き込んでしまった。そしてあまつさえ彼を殺しかけて――。
だけどそれを俺は忘れてしまっていた。
特別でいれる自分に浮かれて、ずっと逃げていた。
『楽しいだろう。特捜本部は』
すべて思い出した時、聞こえてきた影の声を、陽介は噛み締める。
『だって、都合の良い逃げ場所だもんな。事件に飛びついて追い掛けている間、嫌なこと全部忘れていられる。――特別な自分でいられる。そうやって惨めな自分を隠してきたんだ、お前は』
影の言葉通りだ。
俺は、自分をうまく見せようとして、都合の悪いことから逃げてなかったことにしたかったんだ。
何も無い自分。好きな人にふられた惨めな自分。それをペルソナを持つ人間、そして誘拐殺人事件を追える特別な人間だと言うことで隠して、無かったことにしたかった。
特別な人間でいたかった。
『親は親。キミはキミでしょ?』
そう言ってくれた時、嬉しかったんだ。あの時声を掛けてくれて、すごく。
俺を見てくれる人がいてくれて。
だから傍にいたくて、こっちを見てほしくて。自分のことばかりになって。それを相手に求めて。
――重荷になるんだ。
陽介は膝に乗せていた手を開いた。掌の中には、プリクラが一枚。
鍵を掛けた引き出しの中にずっと仕舞っていた。それを眼に入れないよう。見てしまったら、あの人がもういない現実を、思い出してしまうから。
あの時半分無理矢理に撮ったプリクラ。仏頂面をしている自分の横で、早紀が優しく笑っている。
知ってる。
自分勝手だって誤解されることもあるけど、早紀がこんな風に優しく笑う人だと。いい加減に見えても、ちゃんと自分を気遣ってくれていたこと。
だから。
『――ずっとウザいと思ってた』
あの人にあんなことを言わせていたのは、自分自身だ。
俺の弱さが、引き起こしていたことだったんだ。