すききらいはいけません
「いっ、磯前さん!」
久しぶりにみんなで集まり、過ごしている時間。一人場を離れ、煙草を吸っていた磯前は、いきなり駆け込んできた和に、目を白黒させた。
和は、かなり怯えていた。逃げてきた方向から身を隠すように、磯前と向き合い「助けてください」と涙目になっている。尋常ではない様子に、たちまち磯前の表情は険しくなった。
「どうしたんだ、坊主」
さっきまで和は日織や成瀬、それにあやめたち双子らと談笑していたはず。遠目からでも楽しそうだったのが、何をどうして、あれからこんな風に和は怯えているのだろう。
「このままじゃ僕……。あっ!」
ちらちらと磯前の肩ごしに向こうの様子を窺っていた和は、いきなり肩を跳ね上がらせ身を竦めた。縋るように背広の裾を捕まれ、磯前は困惑する。「お前は……」と溜め息をつきながら振り向くと、成瀬がこっちに向かって来るのが見えた。
成瀬もまた、さっきまでと様子が違い、怒っているようだった。真直ぐこちらに向かい、磯前を盾にしている和を目敏く見つけ、片眉を跳ね上げる。
「おい、和。お前よくも逃げたな……」
地を這うような低い声で、成瀬は言った。
和は「ひっ」と引き攣った声を上げ、さらに身を固める。あまりの恐がりように、磯前は成瀬の方へ向き直り、鋭く睨み付けた。
「おい成瀬。これは一体どう言うことだ?」
銜えた煙草を近くに置いてあった灰皿で揉み消し、磯前は和を庇う形で対峙する。「磯前さん……!」と背中から、嬉しそうな和の声が聞こえた。
「まさかまた着流しや双子らと一緒にからかってんじゃねえだろうな。事と次第によっちゃあ……」
「待ってくれ、磯前さん!」
成瀬が軽く手を上げ、磯前の言葉を阻んだ。
「これは、和の為を思ってやってることなんだからよ」
「坊主の為?」
首を捻る磯前に、成瀬はああ、と頷いた。そして目を眇め、隠れている和を磯前の肩ごしに睨み付ける。
「それになんで逃げたのか、磯前さんは知らねーみたいだしな。……なぁ、和?」
「だっ、だってそっちが悪いんだろ! みんなよってたかって!」
「だからって、そこに逃げ込むことねーだろが! しかも全力で走って! よりにもよって磯前さんを盾にすんじゃねーよこのバカ!」
「バカって……。バカは成瀬くんのほうだろー!」
「お前なぁ!」
磯前を盾にしながら、負けじと言い返してくる和に、成瀬はまた何か言おうと口を開きかける。だが呆れている磯前に気づいたのか、成瀬は言いかけていた言葉を飲み込み、怒りを少しでも抑えようと息を深く吐いた。そして改めて、磯前を見て「磯前さん、和をこっちに渡してほしいんだけど」と頼んでくる。
「別に渡すのは構わねえけどよ。その前にどうしてこうなったか理由を言え。じゃねえとこっちも気分が悪い」
「い、磯前さん……!」
磯前の言葉に、何故か和が慌てた。「坊主?」と見てみると、あからさまに顔色が悪くなっている。そして成瀬は和とは対照的に「よっしゃ」と勝ち誇った顔をして、拳を握った。
一人状況が掴めず、磯前は「どういうことだ?」と成瀬に尋ねた。どうも何かがおかしい。
「こいつさ」と成瀬が和の方を指差して答える。
「偏食が酷いんだよ。好き嫌いが激しいのなんのって。だから、少しずつでも直した方が良いんじゃねーかって話になったんだけどさ。そうしたら、こいつ」
「……逃げたのか?」
事情を察し、疲れた声で言った磯前に「そういうこと」と成瀬は頷く。
「しかも走って、か」
「ひでー話だよなー。嫌いなもん入れたら、せっかくオレや日織が作ったものでも食べねーって駄々こねはじめるし。どこまでお子さまなんだよ」
成瀬の話を聞きながら、磯前は黙り込み、顎を撫でた。「い、磯前さん?」と和がこわごわと磯前を見上げる。
一瞬の沈黙の後「――ほらよ」と磯前は成瀬に背を向けた。背広を掴み、後ろにへばりついていた和ごと。
無防備になった背中を成瀬に曝け出し、孤立無援の和は慌てて逃げようとするが、もう遅かった。すかさず成瀬は後ろから和の首根を捕まえる。「ちょっ、止めてよー!」と和は抵抗しても、成瀬はそれを許さなかった。
「覚悟しとけ。絶対お前の偏食直してやるからな」
「い、いらない! 引っ張らないでよー!」
成瀬は磯前に「ご協力感謝します」と敬礼し、和を引っ張って日織たちがいるところへと戻っていく。呆れながら見送り、磯前は煙草をパッケージから取り出した。どこまでガキなんだろうか、あの坊主は。
「……ま、これも良い機会だろうから。しっかり直してもらえよ」
和たちの方を見つめてひとり呟き。磯前は煙草を銜えて、火をつけた。