欄外にあるやや冷たい真実
空港のソファに、和は力なく座る。雑踏の中、沢山のざわめきに囲まれているのに、全てが遠く離れて聞こえた。ぼんやりとした目は虚ろで、自分から世界を切り離しているような感じがする。
どうしてだろう。鉛を背負っているみたいに、身体が重い。顔を上げるのすら、億劫だ。
直ぐそばに日織がいるのに。彼を直視できない。
「……和さん」
気遣う声が、優しく降りてきた。
和は日織の声に、びくりと肩を竦ませてから、しまったと思った。こんな反応をしたら、日織が困るのは明らかだ。
考えていた通り、日織の言葉は続かない。沈黙に、きっとどんなことを言うべきか、迷っているんだろうと、和は思う。俯いた視界からは日織の顔は見えないが、それが何となく分かった。
望まぬ形で事件が終り、それから落ち込み続ける和を、日織はずっと慰め続けていた。だが、どんな言葉も、和の心を浮上させるには力が足りず、虚しく素通りしていった。
眉根を寄せて、それでも心配させまいと笑う日織の気持ちが、苦しくなる程に優しく、逆に申し訳ない。
僕が、もっとちゃんとうまくやれてれば。
和は俯いたまま、下唇を噛み締める。こうでもしないと、また涙が出てきそうだ。
「……すいません。一緒に帰れねえで」
日織が静かに言った。
和は日織を見ないまま「ううん」と首を振る。
「仕方ないよ。アルも大変なんだし。日織がそばにいた方がいい。僕は……大丈夫だから」
無理に笑顔を作り、和はようやく傍に立っている日織を見上げた。
「三笠さんも日本に着くまでは一緒だし。心配しないで」
痛々しく笑う和の表情に、日織は一瞬眉根を寄せるが、すぐに平素を装って「そうですか」と頷く。
「飛行機に酔いそうになったら、怖くてもちゃんと三笠さんに言ってくだせえよ。くれぐれも無理はしねえように」
「日織。それはちょっと過保護すぎ……」
呆れる和に「いいえ」と強情に日織は首を振った。
「ここ数日、あんたはずっと無理をしっぱなしだったんだ。ろくに寝てもないんでしょう? ちゃんと休まなきゃ駄目なのを無理に帰るんですからね。……本当はもうちょっとこっちで休んでた方がいいんですが」
「ごめん」
和が日織の言葉を遮った。必死に作っている作り笑顔に、辛苦の色が滲んでいく。
「それは僕が駄目なんだ。……ここにいてアルを見ていると、どうしても……あの人を、思い出しちゃうから」
辛いんだ、と和は吐き出す様に言った。
「日織からすれば、逃げちゃうみたいに見えるだろうけど。でも、僕、もう」
「……和さん」
日織は優しく和の肩に手を置いた。訝しむ和に、これ以上言わなくていい、と首を振る。
「……ごめん」
和は謝り、潤む瞳を見られないよう慌てて俯いた。そして「ごめん」とまた謝る。肩に置かれた手から伝わる優しさが、今はただ、辛い。
「謝らないでくださいよ。今回あんたをこんなことに巻き込んだのは、他でもない俺なんだ。どうして連れて来たんだって、罵ってもいい理由に十分なり得るんですよ」
「出来ないよそんなの」
強く頭を振り、和は膝に置いた手を握りしめた。
「日織やアルたちだって辛いのに。僕だけなんて」
「……和さん」
深い哀しみにくれる和に、日織はそっと目を伏せる。その場に屈みこみ、肩に置いていた手を、握りしめられた拳へ移動させた。固くなった手を、上からそっと柔らかく包み込む。
近くなった距離から見える、和の目元は真っ赤に腫れていた。
「……やめましょうか。このまま問答してても、埒があきません。それに和さん、俺といたらずっと辛いままでしょう?」
確信めいた問いかけに、日織の手に包まれていた拳が、びくりと強張った。震える声で「日織」と和は首を振るが、今にも泣きそうな顔は、それが本当だと理解するに十分だった。
和は嘘をつけない人間だ。たとえ言ったとしても、彼を知っている人間なら、きっとすぐに見破れる。
「いいんですよ。無理しねえでも」
「ごめん……」
日織の反応に虚勢を看破されたと悟り、和は肩を小さくする。
「いいえ。和さんが謝る必要なんて、何処にもないんです。言ったでしょう? 悪いのは俺だって」
「日織」
日織は優しく笑った。
「落ち着いたら。俺といても大丈夫だと思ったら、連絡くだせえ。それまで俺は、あんたの前には現れませんから」
「……っ」
ああ、また泣きそうになって。
日織は零れかけた涙を拭おうと手を伸ばしかけたが、寸でのところで止めた。こうして、彼を泣かせている原因の一つに、間違いなく自分が関わっている。それなのに、何くわぬ顔で慰めようなどと、勝手な話だ。
せめて、と名残り惜しむように和の手を握りしめ、日織は笑う。
「和さん、お元気で。気をつけて帰ってください」
「……うん」
顔を上げた和は、とても悲しそうで。それでも心配掛けまいと無理して笑う。
俺はまたしくじったみたいだ、と日織は自分の失態を悟った。
この人に、そんな顔させたくて言ったんじゃないのに。
「お前は救いようのない馬鹿だ」
気を回し、少し離れたところで待っていた三笠の元に日織が向かうと、直ぐさま悪態が飛んできた。加えて、険しい睨みのおまけつきで。
「全くその通りで」
軽く肩を竦めて日織が答えると、視線が呆れたものへと変わる。三笠は大袈裟にため息を吐くと、目を伏せた。
「分かった言い直そう。お前は救われるつもりがない分、余計に質の悪い大馬鹿だ。そもそも気の遣いようがどれだけ間違ってるんだお前は。慰めようとして余計に落ち込ませてどうする。こんなことになるんなら、もうちょっと他の方法はなかったとか考えようとは思わんのか」
「すいませんねえ。でも悪意があった訳じゃあねえですし」
「当たり前だ」
断ずるように三笠は言った。
「あれで悪意があったら、俺はお前を殴るぞ。狂言とは言え、明らかにやりすぎなのもあったんだからな」
サロンで見た、見立て殺人の現場を思い出し、三笠は不機嫌に顔を顰める。
白い布に包まれ、祈りを捧げる体勢にされた死体。事情を知らない人間からすれば、異様さにトラウマを負いかねない衝撃があった。例えそれが、伯爵を脅迫する犯人をあぶり出す為の狂言だとしても。
日織は最後まで、ジョージの狂言殺人だけは、反対してたらしい。だが、それ以前の問題だろうと三笠は考えている。もっと他に方法があったんじゃないだろうか。
「……確かにアルノルトの立場を考えれば、内々に処理したいのは分からんでもなかった。だがな、お前らのとった方法は、悪意を持った存在を呼び起こして、一歩間違えれば取り返しのつかんことになりかけた。違うか?」
「……」
日織は苦い顔で三笠を見返す。日織もまた承知しているからだ。
ひどいから、と和から震える手で渡された、先代の日記。そこに書かれていた、信じ難い真実を知って、自分達とは違う意図――明らかな悪意を持って動いている人間がいたのだと。
母親が、悪魔を呼び出す為に自分やディートリヒを捧げようとしていた。もしあの内容を、アルノルトが知ってしまったら。自分の母親を、聖母のようだと信じて疑わない彼の根柢を覆かねない真実は、心の崩壊を齎していただろう。
言い様のない恐怖に、日織は身を震わせた。
「……一柳君に感謝するんだな。彼は下らん理由で呼ばれたが、そのお陰で今お前が考えていたことにはならんかった。だが」
ふ、と言葉を切り、不機嫌を隠さず三笠は言った。
「肝心なところでしくじってしまったが。俺も彼も。あと少しのところで、あいつを逃がした。――永遠にな」
「……ティーロさん」
無意識に日織が呟いた名前に「ああ」と三笠は言った。
「ディートリヒは死んだ。もういない。死人に口は、聞けんからな」
城で起きた不可解な事象を追い掛けていた三笠と和が辿り着いた先に、ディートリヒがいた。狂言だった橋の落下を、現実のものとしたのも。空室に先代の日記の中身を破きばらまいたのも。推理を進めていくうちに、彼しか出来なかったことだと判明してしまった。
二人は彼の口から真意を聞く為、それぞれ見立ての本に書かれていた場所へとあたりをつけ、見張りに立った。そしてディートリヒは、和のいるアトリエに姿を現した。
二人がどんなやり取りをしたのか、その場にいなかった三笠は知らない。だが、とてもじゃないが愉快なことにはならなかったんだろう。それは、深く沈みこんだ和を見れば一目瞭然だった。
駆け付ける途中、三笠は塔の階段を掛け昇っている時に、和の悲鳴を聞いた。声にならない悲痛な叫びに急ぎ、辿り着くと和は塔の端に座り込んでいた。呆然と、下を覗き込んでいる。
三笠に気づき、泣きじゃくりながら和が指差したのは、何もない虚空。霧の向こう、遥か下の地面に広がる、赤い血の色。
それは、最も悪い形で事件が終ってしまったという、現実だった。
真実は、遠くへいってしまった。
ディートリヒがその胸に、抱えたまま。
ディートリヒが死ぬ様を見ていた和は、あれからずっとふさぎ込んでしまっている。自分が下手に追い詰めたから、と後悔している節もあるようだった。
そんなことを思う人間はいないだろう。少なくとも、あの城にいた人間は、誰ひとりとして和を責めたりはしない。
だが和は自分を責め続ける。優しすぎる性質を持つが故に。
「……あの日記と同じかもしれんな」
「はい?」
「あれは誰が見つけても構わんように置かれていた。その後の反応を楽しむような、一種のゲームみたいにな。もしかしたらわざわざ一柳君の前で身を投げたのも、同じ理屈かもしれん」
「それって」と日織が僅かに青ざめる。
「和さんの、反応を見る為に……?」
「あれだけ底の抜けた馬鹿みたいなお人好しだ。そういう性質を持つ人間からすれば、さぞ好ましい反応をすると思うが」
苦しんで、自分を責めて、壊れそうな程に心を追い詰めさせてゆく。
それを見た周り――特に狂言を企てた人間――は罪悪感に捕われて。どうすればいいか、分からなくなって。
まるで負の連鎖だ。
これでは誰も、救われない。
――ディートリヒ。
こんなことを、お前は本当に望んでたか?
「……召還に失敗した悪魔をその身に封じ込められた少年は、地中の城に幽閉されて、か」
苦虫を噛み潰したように、三笠は言った。
「案外、ディートリヒにも憑いていたのかもしれないな」
「……悪魔が、って言うんですか?」
「ああ」と三笠は頷く。
「俺は昔からディートリヒを知っていた。幼い頃からあんなにアルノルトに尽くして、大切にして、仕えてきた忠義心の固まりが、本心からアルノルトを苦しめるとは考えにくい」
そうであってほしいと、多少の願いを込めながら三笠は言う。
ディートリヒは、子供の頃からアルノルトを心から大切にしていた。会う人間に一々アルノルトがいかに素晴らしい人間か、話して聞かせる時、彼の顔は誇らしく、それでいてとても楽しそうだった。あれが演技だとは思えない。思いたくない。
後ろから殴られ、まだ痛む頭を擦りながら三笠は「俺だって、ディートリヒに恨まれる覚えもない」と呟く。それを日織は神妙に見つめ「そう、ですね」と応えた。
三笠は、あの城で殺されかけた。かつての当主が施した、悪魔封じの見立てになぞられた格好で。迷路の奥、燭台に縛り付けられ、少しでも動いたら天井に吊るされた凶器が、命を奪う状況。鈍く冷たい凶器の刃を思い出すだけで、三笠の全身は粟立ちそうだった。
どうして、あんなことをしたんだろうか。知らないうちに、ディートリヒの恨みを買ってしまったんだろうか。
どうしても不可解さが、残ってしまう。
「俺は、どうしてあいつがあんなことをしたのか、問いただしてみたかったんだがな。ディートリヒが死んだ以上、どうすることもできんだろう」
「……」
「日織」
三笠は顔を上げ、真直ぐ日織を見た。いつもは斜に構えていた視線が、直に向けられ日織は気押される。後ずさりそうな足を踏ん張り、息を詰めながら三笠を見返した。
「俺と一柳君は真実を見極めようとして失敗した。それがあの結果だ」
三笠は一瞬、和の丸まった背に目を向け、言葉を続ける。
「だが、お前達も覚えておけ。自分達がしてきたことの結果を。うまくいかなかったからと、目を反らすことだけはするな。お前も、アルノルトも。現実を受け止めて、これからどうするか、じっくり考えとけ」
「……相変わらず厳しい人だなあ。容赦がねえや」
苦笑する日織に「お前相手に容赦してどうする」と三笠がしれっと応えた。当たり前だと言わんばかりの様子に、日織の苦笑は更に深まる。
一つ息を吐き、日織は三笠に頭を下げた。
「……すいませんが、和さんをお願いします。俺が頼めた義理じゃねえですけど」
「うん、俺もそう思う。お前は一柳君を泣かせた分、罰が当たるべきだ」
言いながら、三笠は床に置いたあった荷物を手に取る。もうすぐ日本行きの飛行機が出る時間だ。
「とりあえず、向こうに着くまでは面倒見てやる。だがそれから先はもう知らんからな。だから、とっとと早く戻って、お前が何とかしろ」
素っ気無い言い方。だが、遠回しに早く元気になれ、と言われたように聞こえ、日織は目を丸くして瞬いた。だが、既に三笠は日織に背を向け、和の元へ向かっている。
――みーさんの優しさは、正統派じゃないから。捻くれまくってて、分かりにくいんです!
三笠をよく知る破天荒なメイドの言葉を思い出し、日織は思わず笑ってしまった。
なるほど。全く持って、その通りだ。
三笠と話し込む日織を横目に、和は心中でごめんと謝り続けた。組んだ手で、口元を押さえる。こうでもしなければ、胸にたまった色んなものが、どんどん零れていきそうで怖い。
どうして。どうして、と。もう何処にもいない人に対して、問いかける。
『三笠尉之を殺そうとしたのは、オレじゃないぜ』
意地の悪い冗談か、それとも本当なのか。和には分からない。だが、その後すぐ身を投げたディートリヒの記憶が蘇る度、無力感が和を襲う。
何か、間違っていたんだろうか。もっといい方法はなかったのだろうか。もう終ったことなのに、気がつくと、取り留めのないことを考えてしまう。
ディートリヒが死んだ後も、周りは和を気遣った。日織も、一番近しい人を亡くしたアルノルトも。優しすぎて、息苦しくさせる。
――ごめん、日織。
和は目を強く瞑った。
――でも正直、日織といてうまく笑える自信がないんだ。
じわりと瞼の裏が熱くなる。鼻の奥がつんとして、目が潤んでいく。
和が洟を啜ると、「また泣くか」と不機嫌極まりない声が降り掛かった。顔を上げると、やはり不機嫌そうな顔をした三笠が、腰に手を当て、眼光鋭く和を見下ろす。
「めそめそするな。うっとうしい」
「す、すいませ……」
反射的に謝り、和は肩を竦める。あの城で長らく時間を一緒にしていた三笠だが、未だに怖いと思ってしまう。
露骨に怯える和に、三笠は深く溜め息を吐いた。そして腰に当てていた手を伸ばし、胸元で握りしめられた和の手を取った。そのまま引っぱり上げると、呆気無く和を立ち上がらせる。
「あ、あの……」
怒られるんじゃないか、とそわそわする和に「行くぞ。そろそろ時間だ」と三笠は言いながら手を離し、歩き始める。三笠は歩くのが早く、すぐに遠ざかっていく。慌てて和は手荷物を掴むと、その背中を追い掛けた。
この人といる時は、いつもこんな風に追い掛けていた気がする。
行き交う人の中、和は三笠を見失わないよう、必死に歩を進めた。
三笠には、いつも迷いがなかった。こう、と決めたら、それに向かって突き進んでいく力がある。それはかつて刑事だった頃から今まで、築きあげてきた経験や、自信から繋がっているんだろう。周りから名探偵と呼ばれる和から見れば、三笠の方こそ名探偵と呼ばれてもおかしくない。
僕も、三笠さんみたいな強さがあったら。何か、変わっていただろうか。
霧の向こうに見えた、赤色を思い出し、胸がずきりと痛む。
「――一柳君」
三笠が歩みを止め、不意に和を振り向いた。
和は三笠の前で立ち止まり「……はい」と窺うように応える。また怒鳴られるんじゃないか、と身体が自然に身構えた。
三笠は、じっと和の顔を見て言った。
「泣くんだったら、日本に帰ってから泣け」
「え……?」
「で、さっさと立ち直れ。でなければ、日織がアルノルトのところに永住するはめになるぞ」
「そ、それは……」
ないんじゃないか。そう和は思うが、日織ならしてしまいそうだと、つい考えてしまい、言いかけた言葉をもごもごと飲み込んだ。日織なら、本当にしてしまいそうな、妙な説得力がある。
「それから、俺はディートリヒがお前に何を言ったか、聞く気はないからな」
「え?」と和は三笠をまじまじと見返した。もしかしたら、聞かれるかもしれないと考えていただけに、意外だ。
和の視線を受け、三笠は淡々と自分の考えを投げ付けてくる。
「聞いたところでどうにもならんし、君こそ落ち込むだろう? 立ち直るのが時間掛かりそうなのに、これ以上、突き落とす趣味はない」
「……」
「一柳君」
三笠は手を伸ばし、和の胸元へ立てた指を突き付けた。和は、三笠の手に目を落とし、「あの」と反応に困って首を傾げる。
だが、三笠は和の言葉を無視して言った。
「今お前が抱えているものをどう片付けるかは、お前次第だ。だが、放り投げて忘れることだけは、するな。どんなに辛かろうが苦しかろうが、忘れてしまったら、それこそ今までやってきたことがなかったことになる。お前は、城にいた人間の中で、真実に一番近づいたんだ。一応名探偵の肩書きを持つんなら、手に入れた真実を、手放すことだけはするんじゃない」
たとえそれが、どんなに冷たく、痛みを伴うものだとしても。
「……背負ったまま、立ち上がれ。それがどんな形であれ、事件に首を突っ込んだ者の責務だ」
「三笠さん……」
和が三笠を見つめる。厳しい言葉だったが、それは重みがあった。自分よりもずっともっと、色んな真実に触れてきたからか。それとも、三笠自身もその胸に、辛い真実を抱えているんだろうか。
「……返事は」
立ち尽くしたままの和に、三笠が苛立ったように言った。
「は、はいっ」と和は急いで返事を返す。ここで黙っていたら、また怒声が飛びそうだ。
頷く和に三笠は満足して、突き付けていた指を離すと、またさっさと歩き始めた。だが、思い直したように直ぐ立ち止まり、和を肩ごしに振り向く。
「それから」
「はい?」
「お前は下らん招待理由でこんな遠くまで連れてこられて、いらん騒動に巻き込まれた。ディートリヒが死んで、さぞかし後味が悪いだろう」
「……」
率直な物言いに、和は肩を落とした。目に見えて気持ちが沈んでしまった和に、それでも三笠は、自分の思うまま言葉を綴る。
「だがな、それでもお前のお陰で命が救われた人間がここにいることも、ちゃんと覚えておけ」
「……っ!」
和が勢いよく顔を上げ、目を見開いて三笠を見た。予期せぬ言葉に、驚きで眼鏡の奥の瞳が揺らめく。
三笠は、口元を上げて笑うと言った。
「しくじったからとお前が俯く理由なんて、ないんだ。だから、胸を張れ。しっかり前を見ろ」
「…………あ」
三笠の言葉が心に届いた瞬間、唐突に和の顔がくしゃりと歪んだ。唇が戦慄いて、手で顔を覆った。持っていた荷物が音を立て、床へと落ちる。
最後に泣いた時から懸命に堪えていた涙が、堰を切って溢れ出す。ぽろぽろと、頬を濡らしてしゃくりあげる声が、喉を震わせた。
「何でそこで泣くんだお前は!」
突然泣いてしまった和に、三笠は狼狽して、身体ごと向き直り怒鳴り付ける。
「めそめそするな! こんなところで泣かれたら、俺も本気で困るだろうが!!」
「す、すいませ……」
言った傍から、二人に向けて周りが無遠慮な視線を投げている。傍から見れば、三笠が和を泣かせた悪者のように目に映るのだろう。
和は袖をひっぱり涙を拭うが、止まってくれない。自分の意志を無視して、感情がどんどん涙を生み出していく。
三笠の言葉を聞いた時、和は心のどこかが、軽くなったような気がした。
何故だか分からないけども、許されたような、救われた気持ちになって。
心が軽くなった分、涙が零れた。
ぽろぽろと、感情を堪えていた分、溢れてくる。
「謝るぐらいなら、とっとと泣きやめ馬鹿者」
辛辣な言葉とは裏腹に、近寄った三笠が、ぽん、と無造作に和の頭に手を置いた。まるで迷子の猫にするような手付きで、頭を撫でられ、その無骨な優しさに、和の閉じた瞳から、また一筋涙が流れ落ちた。
最後の最後で失敗して、捉え切れず欠けた真実は、冷たく胸の中に埋められた。もう、そこから取り出される日はこないだろう。永遠に。
そしてまだ、後悔や不甲斐無さが心の中に踞っている。
だけど、与えられた優しさに、時間が掛かっても立ち直って、前を見られる日がきっと来るんじゃないか。
いつか、きっと。
泣きながら、和はそう思った。