大学も夏期休講に入り、和は日織の家に来る回数が増えた。午前の間は日が陰っている縁側で、よく庭を横切る猫相手に遊ぶ。どこかの家で飼われているらしい猫は、和の姿におくびも見せず、にゃあ、と鳴いて伸ばした手に頬を擦り寄らせる。
 和は寄ってきた猫を膝の上に乗せ、目を細めてごろごろ鳴る喉を撫でた。庭で打ち水をしていた日織が杓を持つ手を止め「すっかり和さんに慣れちまったみてえですねえ」と笑う。
 うん、と嬉しさに頷いて、猫を撫でつづける和のポケットから、携帯の着信音が聞こえた。そこから取り出しフリップを開いた画面には、成瀬からメールが届いていることを告げている。
 メールの本文には、今仕事の待ち時間中であることと、和は何をしているか尋ねていることが書かれていた。次の出番まで成瀬は結構掛かるらしい。
 和は労いの言葉の後、正直に日織の家にいると返信するメールに書いた。今猫が膝に乗ってるんだよ、と懐く猫の画像もつけて成瀬に送る。すると、幾分もしないうちに今度は電話が掛かってきた。
「その猫を今すぐ下ろせ。つーか、また日織ん家にいるのな、お前」
 開口一番に成瀬の不機嫌な声が、携帯の向こうから聞こえてくる。怒ってるな、と思う和の考えを裏付けるように、成瀬は拗ねた口調で言った。
「大体お前は日織ん家に入り浸り過ぎてんだよ。日織も日織でお前を餌付けとかして甘やかしてるし」
「餌付けって……」
「いっつも上手い飯作ってもらってんだろ。餌付けじゃねーか」
 和は悲しいことに違う、と否定出来なかった。成瀬の言う通り、日織の家へ来る度に腕に縒りをかけて作られた料理が振る舞われる。今日なんて、実家である店で作られた豆腐を持ってきて、揚げだし豆腐を食べたいと頼んである。自覚してないだけで、実は相当餌付けに成功されてるんじゃないか、と和は思ってしまった。
 和は日織のほうを見た。和が掛けている電話の相手が成瀬だと分かっているらしい。後ろを向いているが、肩が震えている。杓を持っていない手は口を押さえているから、きっと笑いを堪えているんだろう。何を話しているのか見透かされているような気分になった。
 沈黙を肯定と取ったらしい。成瀬が重く長い溜め息をこれみよがしに吐いた。
「お前さ、少しは俺の気持ちも考えろ」
「考えろって……」
「俺だってお前に会いたいんだっつうの。この前会ったの何時だよ。三週間は前だろ。会えない間、お前は他の男のところにいるってなに。もやもやすんだろ」
「いや、でも仕事なんだし」
 成瀬くんにとっては仕事での忙しさは、役者の階段を順調に昇っている証拠だからいいことなんだと思うけど。口先まで出かけた言葉を、和は飲み込んだ。言えばまた怒られそうだ。
「じゃ、じゃあそんなに心配ならさ、仕事が終ったらこっちに来る?」
 和は努めて明るく、成瀬を誘った。会えなくて拗ねているなら、会ってしまえば解決する。成瀬に会いたいのは和も同じ。なら、迷う必要なんてない。
「……遅くなるかもしんねーぞ?」
 言ってから無茶に気付いたらしい。成瀬が和の誘いに殊勝な言葉で返した。
「日織とか、迷惑すんじゃねーの? 料理の手間とか、増えっし」
「大丈夫だと思うよ? ……ちょっと待ってて」
 和は耳から当てていた携帯を離し、「日織」と家主を読んだ。何ですかい、と振り向く日織に「今日成瀬くんも一緒にいい?」と和は尋ねる。それだけで事情を察した日織は面白そうに笑って「構いませんよ。和さん豆腐たくさん持ってきてくれましたし。一人ぐれえなんてこたぁないでさぁ」と快諾する。
「日織もいいって言ってるから、成瀬くんもおいでよ」
 和は笑った。
「でもよ……」
 尚も躊躇する成瀬は口をもごつかせながら言い淀む。どうして遠慮するんだろう。和が困っていると、近づいてきた日織が杓を入れた水桶を地面に置き「貸してくだせえ」と携帯を渡すように催促した。
「成瀬さん渋ってんでしょう? 俺に任せておけばすぐに承諾させてみせますから」
「本当?」
 和は悩むことなく携帯を日織に渡した。さっきよりも口許を大きく上げて日織は笑い、さりげなく後ろを向いて、受け取った携帯を耳に当てる。
「成瀬さん」
「……日織?」
 いきなり変わられ、成瀬が怪訝な声を上げた。
「残念だなあ。せっかく和さんがアンタを待ってるってえのに。仕方ねえですから、今日は夜通し慰めてあげまさあ――俺が」
「……っ!」
「いいんですかい? アンタが来ないと俺と和さんで一晩中二人っきりになっちまいますよ。あ、でもしょうがないか。仕事がいつ終わるかわかんねえし。それじゃあ今夜は和さん俺に任せておいて」
「られるか! 仕事終わらせてたら、すぐそっちに行くからな! 和に変な真似するんじゃねーぞ!」
 勢いよくまくりたて、成瀬は電話を切ってしまった。やっぱり話をちゃんと聞いていない。和が家に泊まる回数は少なくないし、一晩中二人きりなどざらだ。
 少し煽っただけであの過剰な反応。分かりやすい、とこみあがる笑いを押さえ、携帯のフリップを閉じる。
「成瀬さん来ますって」
「本当?」
 日織の報告に、和が表情を輝かせた。日織の手から戻された携帯を握りしめ、ありがとう、と笑う。
「早く来れるといいね」
 そわそわし始める和に、そうですね、と日織が返す。その脳内では、来るなり詰め寄ってくるだろう成瀬に備え、どう言い繕うか考えていた。