慣れてますから

 晴れた日の昼休み。ゆうかは、須未乃大学の中庭にあるベンチに座っていた。勉強道具の入った鞄の横には、さっき寄った購買のビニル袋。いそいそとパンとコーヒーを取り出し、膝の上に乗せた。
 興味もなく、加えて長い授業を終えて、空腹も限界。ゆうかとしては、サボってしまいたかったが、興味のない講議だとしても、進級の為に単位は必要になる。だから受けなきゃいけない。
 しかし、ゆうかにとって、興味のない講議は、退屈の一言につきた。唯一進んで取っている霧崎の講議に比べたら、他の先生の話は引き込まれるものはなく、それでいてやけに時間が長く感じてしまう。さっきまで受けていた講議もまた、退屈から引き起こされた眠気を抑えるのに必死で、肝心の内容は朧げにしか覚えていない。あとで一緒の講議を取っていた友人に、ノートを見せてもらう必要があるだろう。
 もうちょっと内容が面白かったらいいんだけどなぁ。
 ゆうかはそう思い、それは無理な注文か、と考え直す。そもそもゆうかは、都市伝説やオカルトに類するものにしか興味を示さない。大部分の人間はそう真面目に学びたがらないだろう。そもそも、都市伝説自体、友達の友達という曖昧な存在によって、広められる噂が多いのだから。
 ゆうかはパンを食べながら、中庭を眺める。恐らくそこを歩いている人の大部分は、この世に奇異な出来事があるだなんて、思ってもいないんだろう。それがふとした切っ掛けで、直ぐ自分の傍に現れることも。
 そう思いを馳せていると、構内から見知った顔が慌てて出てきた。友人の一人である彼女は、ゆうかを見つけるなり、急ぎ足でこちらに向かってくる。
「――ゆうかっ」
「どうしたの?」
 尋常ではない様子に、思わずゆうかは眉を潜めた。友人は胸に抱えていたファイルを、ぎゅっと握りしめ、肩で息をしている。必死で走ってきたらしい。訊ねても「ちょっ……あの、ね……」とうまく言葉が出てこない。
 ゆうかは、友人にコーヒーのプルトップを開け、差し出した。コーヒーを受け取り、喉に流し込んだ友人は、ようやく落ち着きを取り戻し、はあ、と息を着いてゆうかの隣に座る。持っていたファイルを横に置き、ゆうかの手を強く握りしめ、真正面から真剣な眼差しを向けてきた。
 迫力ある目線に、ゆうかはつい身を引いてしまう。
「ど、どうしたの……?」
 後込みながら、もう一度訊ねた。
「あのね、わたし、大変なもの見ちゃったの」
 そして友人は、周りの目を気にしながら、ゆっくり見てきたものを語り始める。


 それは、彼女は霧崎の研究室に用事があって、向かっていた時のこと。自分が取っている講議の先生から、ファイルを渡してきてほしいと、頼まれたのだそうだ。
 断る理由もなく、ファイルを受け取った彼女が、霧崎先生の研究室に向かう。すると、そこの扉が薄く開いていた。そのせいか、中から誰かの話声が聞こえる。
 霧崎の声と、そして後もう一人、男の人の声。話の内容はいまいちピンと来なかったが、霧崎の声が楽しそうに聞こえているのに、友人は驚いた。
 霧崎は偏屈で、いつも書類と睨み合いをしているような人物だ。彼が笑ったところを見た人物は、大学内で皆無に等しい。そんな人物が、誰かと楽しそうに喋っているなんて。
 興味心も手伝い、友人はつい扉の隙間から部屋の中を覗いてしまった。息を殺し、気配を隠して霧崎が誰と話しているのか、相手を観察する。
 相手は、だらけた格好の霧崎とは対照的に、スーツをきちんと着込んだ青年だった。年齢は友人と同じぐらいか、少し年上のように見える。柔らかい雰囲気も手伝って、ほんの少し頼り無い印象を受けた。大学内で見かけたことがないから、恐らくは構外から来た、霧崎の関係者、と言ったところなんだろう。
 二人は本で埋まっている机を挟んで、楽しげに談笑していた。
 ――嘘。『あの』霧崎先生が笑ってるよ。
 始めてみた霧崎の笑顔に、彼女は心から驚いた。仏頂面しか見たことがない身としては、天変地異の前触れみたいに思えてしまう。
 笑顔を見せているほど、心許せる相手なのだろうか。逸る心臓を押えつつ、友人がなおも様子を窺うと、ふと青年が自分のネクタイを摘んで、何かを霧崎に対して言っているのが見えた。霧崎はごく緩く締められた自分のネクタイを一瞥し、すぐに視線を反らす。
 きっと、ネクタイを直せとか言ってるんだろうな。
 そう青年の言葉に、彼女が当たりをつけていると、次の瞬間目を丸くした。突然、青年が霧崎の前に移動すると、彼の胸元へ手を伸ばしたのだ。一つ二つとワイシャツのボタンをはめ、ネクタイを結びに掛かる。
 ネクタイぐらい、自分で結ばせればいいのに。どうしてわざわざ結んであげるの? そもそもどうして、霧崎先生は全然嫌がってないんだろう。
 口煩く注意されているだろうに、霧崎は素知らぬ顔だ。いや寧ろ、とぼけて聞かない素振りをしているようにも見える。まるで、青年に自分の世話を焼かせるよう仕向けたみたいに。
 ――え? ええ? えええええ!?
 彼女は見てしまった。霧崎がネクタイを結ぶ青年に対して、ご満悦な表情を浮かべているところを。
 その瞬間、彼女が今まで霧崎に対して気付き上げてきたクールで偏屈なイメージが、がらがら音を立てて崩れていった。あの顔は、男が男に対して向けるものにしては、胸焼けがするほど甘過ぎるように見える。きっとこれは気のせいなんかじゃない。
 限界だった。
 覗きをしていた罪悪感も手伝い、彼女はいたたまれなくなって、その場を後にした。用事があるとしても、今あそこに入るのは、とても勇気がいる。それにあんな表情を見た後では、平静を装って霧崎に接するなんて、無理な話だった。


「もしかして、霧崎先生とその一緒に居た人ってそう言う関係なのかな……」
 彼女は息巻きながらゆうかから手を離し、拳を作る。当時の思い返したことで、その状況を思い出し興奮気味になってしまっているようだった。
「ね、ね。ゆうかはどう思う? もしかして、なにか知ってたりする?」
 赤ら顔で訊ねた友人に対し、返ってきたのは。
「なぁんだ」
 ゆうかの冷めた反応だった。手を握られて食べられなかったパンにかぶりつき、友人を唖然とさせる。
 ゆうかのことだ。もっとくいついてくるだろう。そう考えていた友人は、思い掛けないゆうかの淡白さに「えっ、と……?」と言葉に詰まる。
「ゆうか? さっきの私の話、聞いてた?」
「聞いてたよ」
「じゃあ、その反応って何? もっと驚くかと思ったのに」
「だって、いつものことだもん」
「えぇ!?」
 驚かせるつもりが、逆に脅かされてしまった。
「えっ。じゃ、じゃあ。ああいうの、いつもやってるってことあの二人!? それをいつものことって……ゆうかも見たことあるってことなの!?」
 肩を掴み揺さぶる友人を「まぁまぁ」と抑え、ゆうかはしれっと答える。
「何だったら、霧崎先生のゼミをとっちゃえば? そうして、研究室に足を運んでいけば、真実は明らかになるから」
「………………」
 ゆうかの言葉に、友人は黙り込んでしまった。恐らく真実は知りたいが、そこまではしたくないのだろう。複雑な顔をして、顎に指を当てると考え込んでしまった。それを横目に見つつ、ゆうかは、もう少し人目を阻んだ方がいいですよ、と霧崎に忠告すべきだろうかと考えた。
 これ以上、被害者を出さない為にも。
 まぁ、言ったって聞かないだろうけど。
 そう結論をつけ、ゆうかはパンにかじり付くと、空腹を満たしていった。
 










「先生」
「なんだ間宮君」
「少しは人目を阻んだ方がいいですよ。お陰で私のランチタイムが、ちょっといかがわしい空気に包まれかけました。そしてコーヒーがまるまる友達のお腹に収まっちゃったんですよ。お陰でもう一本買う羽目になりました」
「それはすまなかったな」
「まぁ、いいですけれど。………………」
「何だ?」
「またネクタイだらしなくなってるじゃないですか」
「ああ。窮屈だからな。この方がいい」
「せっかく純也君が結んでくれたのに。怒られますよ」
「そうだな。怒られて、また結んでくれるだろう」
「……もしかして、それ期待してます?」
「さぁな。間宮君はどう思う?」
「ノーコメントでお願いします」