暗がりと指先




 寝る前に水を貰おうと、台所に向かっていた時のことだ。通りかかった居間から「純也」とおばさんの困った声が聞こえた。
 純也がどうしたんだろう。俺は居間を覗いてみる。
 つけっぱなしのテレビの前に、純也がうつ伏せで眠っていた。側でおばさんが肩を軽く揺すっているが、起きる気配はない。
「どうしたんですか?」
 俺は居間に入り、おばさんに尋ねた。
 おばさんは俺を振り向き「純也が起きないのよ」と頬に手を当て、溜め息を漏らす。
「今日、純也の好きなアニメの映画やってて、ずっと見てたんだけど、いつの間にか寝ちゃったのよ」
「確かに。いつもだったらもう、寝てる時間ですからね」
 小学生でも夜更かしする子供が多くなっている今、純也は大抵九時か十時には部屋に戻る良い子っぷりを発揮している。今日は好きな映画をやっているから、頑張って起きていたが、とうとう限界に達して眠ってしまったんだろう。
「純也。ほら起きなさい。寝るんだったら部屋に戻らなきゃ駄目よ」
 おばさんが優しく声を掛け、純也の身体を揺さぶる。すると睡眠を邪魔されたのが気に食わなかったのか、純也は寝返りを打ち、おばさんの手を払い除ける。起きるつもりはさらさらないらしい。
 俺は小さく笑んで、二人に近づき、床に膝をついた。
「水明くん?」
「俺が連れていきます」
 そう言って、俺は純也の身体の下に手を差し入れた。おばさんが手に頬を当てたままの格好で「いいの?」と首を傾げて尋ねた。
「水明くん、何か用事があったんじゃないのかしら」
「大した用事じゃないですよ」
 水を飲むぐらいなら、純也を布団に寝かし付けてからでも構わない。笑って、俺は純也を抱き上げた。純也は呑気にすうすうと寝息を立て、口をもごつかせている。
「布団はもう敷いてありますか?」
 俺が尋ねると、おばさんが「ええ」と頷く。
「分かりました。じゃあ、連れていきますね」
「――水明くん」
 居間を出かけた俺に、おばさんが声を掛けた。
 俺は振り向く。
 おばさんは優しく笑って言った。
「いつも、ありがとうね」



 おばさんに限らず、風海家の人たちはみんな、俺を家族同然に扱ってくれる。それこそ、たらい回しにしてくれた親戚たちよりも存分に。十分だと思うほど。
 どうして、血の繋がらない他人にそこまで出来るのかと、一度おじさんに尋ねた時「君はアイツの息子だからね。ならば私にとっても同じようなものだよ」と眼を細めて微笑まれ、困惑した覚えがある。そして、その言葉の通り、おじさんは俺を自分の子供のようにして接してくれた。
 純也だってそうだ。初めて顔を合わせてから姑く、俺は素っ気無い態度を取り続け、冷たく当たっていた時もあったのに。それを歯牙にも掛けず、純也は俺を慕ってくれた。
 それにおばさんもおじさんも。嫌な顔一つせず、根気よく接し続けてくれていたんだっけ。
 今思えば、かなり嫌な奴だったと思う。あの頃を思い返せば、あまりの幼さに顔から火が出そうだ。
 実際に今、頬が熱くなっているが、純也を運んでいる途中では、どうしようもない。純也が寝ているのが幸いだ。見られて「どうしたの?」と聞かれたりしたら、俺はうまく答えられる自信がない。
 純也の部屋は俺の部屋の隣にある。ドアの前まで辿り着き、純也を抱き直すと俺はノブを掴んで部屋に入った。
 灯りのついていない室内。おばさんが前もって敷いていた布団に、俺はゆっくり純也を寝かせた。
 毛布を肩まで掛け、はみだしていた手もしっかりしまう。
 任務を完了させ、俺は満足した。邪気のない安らかな純也の寝顔につい笑い、手を伸ばして頭を撫でる。あたたかな、純也の体温が手の平から伝わった。
 ふわりと、俺の心にその体温が届いて、優しい気持ちになれる。こんなのは、ここに引き取られるまで縁がなかった。
 俺は、色んなものを失った。
 両親や幼なじみ。同級生。住んでいた家――居場所。
 あって当たり前だったものは、失ってから、初めてその重要さに気付く。俺は俺であるために必要なものを根こそぎ奪われたような気になって、一歩でも道を踏み間違えたら、奈落の底に落ちそうな危うさを孕んでいたと思う。
 周りの親戚たちの腫物を扱うような態度もあって、俺は人を信用出来なくなっていた。邪魔者扱いされているのに、どうして他人を信用出来るのか。
 だけど今、こうして義弟の寝顔に和む自分がいることに、俺は驚いている。もう人は信じないと決めているはずだったのに。七つも離れたこどもに対して、俺は安らぎを感じていた。

 ――純也。

 俺は頭を撫でていた手を頬へ移動させた。柔らかなまろみを描く頬の線を、指の背でそっとなぞる。

 たまに、怖くなる時がある。
 もし、純也まで、かつての友人のように失ってしまったら。
 人は呆気無くどうにかなってしまう。
 死んでしまったり。殺してしまったり。自分を失ったり。
 俺は、そうなった人たちを間近で見てきたんだ。その時感じた虚無感が、たまに黒い靄になって胸に広がってしまう。
 もし。もしも、純也まで……父さんたちや淳子みたいになってしまったら。
 ……俺は、どうなるんだろう。
 俺は、純也を凝視した。そこに純也が確かにいるのか確認するように。
 頬に触れている指が、震える。

「………………」
 純也が俺の方へと寝返りを打った。俺は慌てて伸ばしていた手を引っ込める。いや――引っ込めようとした。だが、純也が追い掛けるように手を伸ばし、俺の指を捕まえる。寝ているのに強い力だった。
 眼を丸くした俺は、困って辺りを見回していると、ふと純也が薄く唇を開いて、楽しそうに笑った。幸せな夢を見ていると思わせるようなそれに、俺も思わず笑ってしまう。
 いつの間にか、胸に広がっていた黒い靄は消えていた。指を握る純也の温もりが、それを追い払ったのかもしれない。
 俺は空いていた手でもう一度純也の頭を撫でた。「お兄ちゃん」と純也が口元を緩めて笑う。
 間抜けな顔。
 そう思いつつ、俺は手から伝わる優しい体温に、心救われていた。