いまさら




「なぁ、執事さん」
 あの事件が終った後も、そう呼んでくるあやめに、成瀬は軽く眉を寄せた。「なんだよ」と低い声で言い、睨み付けても、あやめは態度を変えず「あれ」とある方向を指差した。
「……なんやの?」
「オレに聞くのかそれを」
 成瀬の表情が先程よりも更に渋くなった。むっとして、わざとその方向から顔を背ける。
 不穏な雰囲気から、姉が成瀬にちょっかいをかけていると察したしのぶが、二人の間に入った。成瀬とあやめを順に見、そして姉が目を向けている方向へと、視線を送り――、「ああ」と納得する。
「お姉ちゃんあかんて。成瀬さんの傷口に塩をぬっちゃ」
「えー。面白いのに」
「笑い事じゃねえっつうの」
 苛立つ成瀬の言葉に「でも」としのぶが首を傾げる。
「お兄さんと付きおうとるの、成瀬さんやなかったん?」
 聞こえてくる和の声に、頭を抱えつつ「そうだよ」と成瀬は耳まで赤くなりながら肯定した。
 そう、一柳和と付き合っているのはオレのはず。告白して了承の返事を貰うまで、どれだけの紆余曲折があったことか。だけど、苦労の甲斐あって、和の恋人の位置はオレが持っているはず……。
 ……はずだよな?
 どんどん考えが否定的になっていく。考え込む成瀬を、あやめが面白そうな目で、しのぶが気の毒そうな目で見つめた。両極端な視線を同時に向けられ、成瀬はいっそここから立ち去りたくなった。



「ちょっと……、日織。そんなに食べられないよ。それにこれ、僕の嫌いなものまで入ってる……」
「いけませんぜ、和さん。和さんはちゃんと好き嫌いをなくして、しっかり食べなきゃあ。それに体力つけねえと、また何か起こった時、大変でさぁ」
「何かって何!?」
「ああ、ほら、大声だすから零れちまったじゃねぇですか」
「あ、ごめん……」
「全く仕方のない人だなぁ、和さんは」



「………………」
「………………」
「……なんやの?」
「そこで聞くか? そこで同じことを聞くのかお前は!?」
 繰り広げられる和と日織のやり取りを見つめ、ぽつりと呟くあやめに、成瀬はすかさず言い返した。
「だってあんなん見たら、聞きたくもなる」
「お姉ちゃんの言うことにも一理ありやね」
 しのぶがあやめに同調し、腕を組んで、うんうんと深く頷いた。
「あんなん何も知らん人が見たら、着流しさんとお兄さんが付きおうとるみたいやん」
「…………言うな。オレもそう見えるから、余計に質悪ぃ……」
 自分で言ったことに自分で打撃を受け、成瀬は胃を押さえて突っ伏した。加えて双子からの指摘に、一層落ち込んでしまう。
 これみよがしに、これぐらいしたっていいだろう? 成瀬は大きく、ため息を吐く。わざとらしく、和たちにも見えるよう大袈裟にしたが、これぐらいであの男があっさり和の側を離れるとは思えなかった。実際、日織はちらりと成瀬たちの方が見たが、すぐに和へと顔を戻している。
 非常に食えない男だ。
「……でも、執事さんも覚悟しとるんやろ? 和たんに好き言うた時点で、着流しさんもついてくるて」
「あー……。まーな」
 あやめの言う通り、覚悟はしていた。日織はあの洋館で和と出会ってからこっち、彼の面倒を甲斐甲斐しく焼いている。和を見守るその目は、まるで彼に何かを期待しているようで。それが叶うまでは、離れる気など毛頭ないのだろう。――叶った後も側についてそうな気もするが。
 でも。
「日織が面倒見てようが、見せつけてこようがそれでもいい。オレが和を好きなのは変わんねーだろ。それに和はちゃんとオレのこと好きだって返してくれたんだ。……今はそれ以上、文句なんてない」
 真っ赤になりながらもようやく告げることが出来た告白に、和もまた、顔を赤くしながら頷いてくれた。
 ちゃんと気持ちは繋がっている。だから、少しぐらいの壁は乗り越えてやろうじゃないか。
 それを聞いて「うわ」としのぶが大袈裟に肩を竦めた。
「成瀬さん、意外と根性あるんやな。うちやったらめげるかもしれんのに。あんなんずっと見せつけられとったら」
 和と日織を見て、うんざりしたように首を振った。
「上等だ。オレにとっても和は譲れねえし。日織ぐらいでめげてたまっかよ」
 はっきり言った成瀬に、双子がじいっと丸くなった目を向けてきた。一斉に見つめられ、思わず成瀬は後ずさる。
「……な、何だよ」
「執事さん、なんやマリアンヌに勝てそうな気がしてきた」
「……は?」
「砂吐きそう。言うこと甘過ぎて」
 あやめはそう言って、からかいながらわざと口を押さえる。そしてしのぶもまた、面白そうに目を細めて笑った。姉にそっくりな、悪戯好きの猫のように。
「せやなー。ひさっびさに青春を間近で見たような気ぃするわ。まぁ、マリアンヌに負けないよう、頑張りや?」
「…………お前らな」
 せっかくの意気込みをマリアンヌと同列にされ、成瀬はがっくりと肩を落とした。こっちだって、好きでやってるんじゃねえっつうの。そう思いながらも、いまさらながらに立ちはだかる壁の分厚さに、成瀬はさらなる紆余曲折が待ち構えていそうな予感がした。

 ――負けてたまるかよ。

 せっかく手に入れた恋人の相手をしている着流しの背中を睨みつけ、成瀬は心からそう思った。