一日の朝は変わらない。
いつもと同じようにスーツの袖に腕を通し、ネクタイをきっちり締める。そして、遅れないよう、ラッシュ時の電車に乗って、勤めている警視庁へ向かう。
「おはようございまーっす、風海せーんぱいっ!」
かわるがわる人が行き交うロビーをぶつからないよう純也が歩いていると、後ろから声をかけられた。
足を止めれば、眼鏡をかけた青年が大きく手を振り走ってきた。目立つ行動に周囲から視線を集めているが、本人は対して気にも止めていない。にこにこと子供みたいに笑いながら「おはようございます」と純也に重ねて挨拶した。
好奇の視線が純也にも突き刺さる。目だってしまい少し気恥ずかしさを感じながら純也は「おはようございます、羽黒さん」と青年――羽黒薫に返す。そして、珍しそうに彼を見て言った。
「ここで一緒になるなんて珍しいですよね」
薫はけっこう寝坊が多い。大幅な遅刻をしても、布団が僕を離してくれないんです、ととんでもな言い訳をする。この前も「貴方は警察官としての自覚が足りなさ過ぎるわ!」と賀茂泉かごめに絞られていた。しかし本人はまったく気にしておらず、けろりとしている。その神経は図太さは折り紙つきだと、純也は半分呆れ、半分感心していた。。
えへへ、と嬉しそうに羽黒は笑い、眼鏡のフレームを押し上げた。
「今日は布団がつれなくて。何か寒いなと思ってたら遠くに逃げちゃってたんですよ。ひどいですよね」
「それは……羽黒さんが布団を跳ね飛ばしたからじゃ」
「あー、でもそのお陰で今日は朝一番に先輩に会えたから。たまには早起きも捨てたもんじゃないかな」
たまには、ではいけないんじゃ。純也の脳裏に鬼女の如く怒り狂うかごめが思い浮かぶが、あえて口には出さず「そうですね」と言葉を濁した。自ら災いに飛び込むこともない。
「じゃあ、一緒に行きますか?」
「はーい!」
エレベーターホールに向かって歩きだす純也の後を、妙に浮かれた足取りで薫がついていく。
純也が身を置いている警察史編纂室は、警視庁には公にされていない地下五階に存在している。直通のエレベーターはなく、地下四階まで降りそれから非常階段でさらに下へ。
そうしてたどり着いたコンクリートの壁に打ち付けられたような『警察史編纂室』のプレートがつけられた鉄の扉の向こうが、純也の職場だ。
扉を開けると、錆びた蝶番が耳障りな音を立てる。それに気づいて先に来ていた巨躯の男が顔を上げた。自分のデスクに身体を小さくするように座っていたその男は、入ってくる純也を見るなり立ち上がって、敬礼をする。
「おはようございますであります、風海先輩!」
「おはようございます、小暮さん」
自分より年上の後輩に、純也は挨拶を返す。薫といい小暮といい、二人とももっと気安く呼んでくれても構わないのに、どちらも直す気配は一向に見せてくれない。勤務年数は、確実に一番短いのだから。
「おはようございまーす、小暮先輩」
薫が、純也の後ろからひょっこり顔を出す。すると、さっきまで笑顔だった小暮の表情が一変して、険しくなった。
「羽黒、貴様っ!」
「あれー、どうしたんですか? 怖い顔しちゃって」
惚けているが、薫はどうして小暮が怒っているのか理解しているらしい。にやにやして言う薫に「どうした、じゃない! あんなものを自分の携帯に送り付けて……!」と小暮の表情がさらに険しくなった。犯罪者も裸足で逃げ出しそうだ、と傍観していた純也は思う。
しかし放っておくのもよくなさそうだ。純也は「落ち着いてください」と宥めるように話に割って入る。
「どうしたんですか小暮さん」
「先輩、聞いてくださいであります!」
言うなりスーツのポケットから携帯を取り出した小暮は、純也の傍まで来た。太い指で素早くボタンを押して、メールを表示させた画面を見せる。
「失礼します」と受け取った純也は、何となく原因が分かりながらも、そのメールを読んだ。
――このメールを三日以内で十人に送らないと貴方は不幸に……
「…………」
自分の憶測は外れてなかったと、純也は確信する。携帯を閉じ、純也は呆れた目を、薫に向けた。
「……羽黒さん、また小暮さんにチェーンメールを送ったんですね」
「いやあ、なかなかいい反応っぷりなんでつい」
「ついじゃない! 貴様あれほど言ったのにまだわかっていないようだな!」
反省の色が見えない薫に、とうとう小暮も限界がきた。怒髪天を衝き、詰め寄ろうとする巨体を、必死に純也は「落ち着いてください」と止める。
「離してください先輩! いい加減コイツは痛い目を見なければわからないのであります!」
「落ち着いてくださいってば」
「そうですよー。あんまり怒ってたら血圧上がりますよ」
「誰のせいだと……!」
「うるさいわね。いつからここは無能のたまり場になったのかしら」
怒りで真っ赤になった小暮の発言を、外から聞こえてくる冷たく鋭利な声が遮った。かつ、かつ、とハイヒールを鳴らし、きつい眼差しを向ける女性が「そこに下らないことでいられると入られないのだけれど」と皮肉げに入り口近くで固まっている純也たちに言った。
「す、すいませんであります、賀茂泉警部補」
冷水を浴びせられたように震えた背筋を伸ばし、小暮がさっと脇に避けた。それに純也と薫も倣うと、女性――賀茂泉かごめは、三人に見向きもせず、さっさと自分のデスクに向かう。
「相変わらずの女王様っぷりですよね、かごめ先輩って」
ぽつりと呟く薫に、純也も頷く。プロファイリングを学んできたかごめの言動は、容赦なく事実を述べ、突き放すようなものが多い。その被害に最も遭っている小暮は「下らなくないのであります」としょんぼり肩を落としていた。これはまた、さっきとは別の意味で慰めなければならないだろう。
そんな男性陣を余所に、肩にかけていた鞄をデスクに置いたかごめは、真っすぐ来客用のソファに歩み寄った。そこには、酒精を漂わせている壮年の女性がだらしなく寝そべっている。かごめはきゅっと眉を寄せ、躊躇いなく眠る肩を揺さぶった。
「犬童警部、起きてください。今日こそ仕事をしていただきます」
揺さ振られた肩をきつく竦め、眉間に皺を寄せる編纂室の主――犬童蘭子はその威厳の欠片もなく、かごめを拒むように身体を丸く縮こませる。まるで起きたくないと駄々をこねる子供のようだ。
もちろんそんな甘えをかごめは許さない。顔色を変えず、「起きていただかないと困ります」と尚も起こしにかかった。
「なんやぁ……。うちはさっき帰ってきたばっかりさかい、もうちっと寝かせてぇな」
「貴女を待っている書類が山ほど貯まっているんですよ」
「あー、うるさいうるさい。頭に声が響いとるから、ほんま勘弁してやあ」
お互い一歩も譲らない。毎日の恒例行事となっている光景を眺め、純也らは邪魔をしないよう。そそくさと自分のデスクに就く。この場に藪を突いて蛇を出す馬鹿はいなかった。
「かごめ先輩もいい加減諦めたらいいのに」
ぽつりと薫が、呟いた。そうですね、と肯定する訳にもいかず、純也は曖昧に笑う。
「あ、それよりも先輩。またいい話見つけて来たんですよ。この前ネットで見つけた都市伝説なんですけど」
オカルト的な話題を満面の笑みで振る薫を、そういう類のものを苦手とする小暮が睨みつけた。
「またお前はそんなことを……!」
「あ、小暮先輩も聞きますー?」
「誰も聞くとは言ってない!」
こちらでも言い争い――と言うより、小暮が一方的に突っ掛かっているのだが――が再燃し、純也はそれでも諦観気味に笑った。これもまたいつものこと。こうやって編纂室の一日は始まる。
騒がしくも賑やか。以前の編纂室には馴染みないものだった。
当時を顧みて、純也は思った。
「――大分変わったなぁって思うんだよ、兄さん」
「ほう?」
純也の言葉を受け、兄と呼ばれた霧崎水明が弟を振り返った。その手には、コーヒーメーカーから煎れたてのコーヒーが二つ。白い湯気を揺らし香ばしい匂いを立てている。
仕事を終えた後、純也は兄が教鞭を取っている大学の研究室に立ち寄り、朝の出来事を話して聞かせた。結局あの後も何かと騒動は続き、一日を振り返ると純也の顔に苦笑いが浮かぶ。
「初めてあそこに足を踏み入れた時は、人の入られるような場所じゃなかったのに」
汚れた書類。散らかし放題の室内。一歩踏み出せば、貼られた蜘蛛の巣が顔にかかり、埃が舞う。仰向けに干からびた虫の死骸もあった。
「今じゃ、あそこが僕の居場所だ」
かつて身を置いていた捜査一課から左遷された形でも、編纂室こそがいるべきところだと純也は思う。そこに持ち込まれる事件は、心霊現象と呼ばれるものが必ず関わり、真実を掴むのも容易ではない。しかし、だからこそ見えない糸を手繰り寄せ、隠された真実を見つけだし、誰かを救いたい――。
純也は今の仕事に誇りを持っている。そして、これからも。
「そうか」
霧崎が微笑んだ。純也にコーヒーを一つ渡し、使い古した椅子に座る。ぎしりと、軋んだ音がした。
「そうだな。お前も随分変わった」
「ぼくが?」
「前よりもずっと頼もしく見える」
いきなり褒められ驚いたらしい。コーヒーを口に運んでいた純也が噎せた。マグカップをテーブルに置いて、口を手で塞ぎ兄を睨む。
「――兄さん」
「本当のことを言ったまでだ。それとも、俺にとってはまだまだかわいい弟のまま――だとか言うべきか?」
「兄さんっ!」
「褒めているんだから、そう怒るな」
怒る純也に、霧崎は緩く唇を上げ、胸ポケットからタバコを取り出す。パッケージから出した一本をくわえ、火をつけた。
「かわいい、は男からすれば全然褒め言葉じゃないよ……」
口を尖らせ、純也は抗議する。子供っぽい仕種に、霧崎は思ったままを言ったんだがな、と思いつつその言葉は胸に秘めておいた。
変わるものもあれば、変わらないものもある。弟には、なるべくそのままでいてほしい。
「今日も騒がしい連中に振り回されて疲れただろう。ご機嫌取りじゃないが、これから食事にでも行くか。俺が奢ろう」
そしてこのまま二人でいるときの心地よい空気が変わらないといい、と思いながら、霧崎は誘いの言葉を口にした。