編纂室に戻った羽黒は、ゆっくりと重い鉄の扉を閉めようとした。蝶番が錆びている扉は、どんなに気を遣ったって、動かす度に耳障りな錆びの擦れ合う音を立てる。編纂室に入った当初こそ、不快な音に顔を顰め耳を塞ぎたくなったが、今ではすっかり平気だ。
 それほど編纂室に馴染んだ証拠なんだろう。もっとも、それ以前に一カ所に長く留まること自体があまりなかったけど。
「――うわっ!」
 扉が閉まりうるさい音が止んだと思ったら、奥の方で今度は悲鳴が聞こえてきた。続いて、ばさばさ、と何かが落ちていく音がする。
 これは耳を澄ませなくともわかった。編纂室の奥には、膨大な数の事件が、ファイルとして収められた書架が並んでいる。大方、そのファイルを引っ張り出そうとして、雪崩を起こしたか。あそこは時折、きつくても無茶に入れている箇所がある。
 仕方ないなあ。羽黒は唇に孤を描き、ゆっくりと歩きだした。並べられたデスクの横を通り、書架へ続く階段を昇る。
 現場は、すぐ見つけた。書架に挟まれた通路。ファイルの山に埋もれた純也がいた。雪崩に巻き込まれたとき、角にでもぶつけたのか、額の辺りを摩っている。
「センパイ、大丈夫ですか?」
「羽黒さん……」
 駆け寄ってくる羽黒に、失敗を見られた純也は恥ずかしそうに笑った。伸ばされた助けの手を「ありがとうございます」と掴み、ファイルの山から引き上げられる。
「それで、どうして埋もれてたんですか?」
 子供みたいになつっこい目を丸くして尋ねる羽黒に「好きで埋もれてた訳じゃないですけど……」と純也が苦笑いする。そして一部がぽっかりと穴の開いた書架を見上げた。
「最近は赤いちゃんちゃんこや地下下水道のペットとかで、ろくに整理できてませんでしたから。ちょっとした空き時間を使って少しでも進めようと思ったんですが……」
 下の落ちたファイルの山へ視線を移し「きついのを無理に引っ張り出そうとしてこの様です」と純也は肩を竦めた。
「仕事熱心なのは、先輩の良いところだと思いますけど。でも一人でやるとか無茶はダメですよ」
 こういう時にあの図体が大きい小暮を手伝わせたら、さっきのような危ない目にあうことはなかっただろう。一言手伝ってください、と言えば喜んで従うはずだ。
「そうなんですが……」と純也は言葉を濁す。
「せっかくの休憩時間ですし、やはり休んでもらわないと」
「真面目ですね。僕には絶対真似できない」
「自分でも損をしていると思うんですけど。これが僕の性分でもありますしね……」
 感嘆する羽黒に、純也は溜め息を吐きながら言って、しゃがみ込んだ。一冊ずつ、ばらばらになったファイルを拾う。
「僕も手伝いますよ」
 羽黒が純也の向かいに回り込んでしゃがみ、近くのファイルを手に取った。純也に「とりあえず拾って。順番に並べるのは後でいいですよね?」と尋ねると、彼は驚いたように羽黒を見ている。
「……あの、こうなったのは僕のせいですし、僕一人で……」
「何言ってんですか。この状態で先輩ほって置いたらそれこそ小暮先輩に怒られちゃいますって」
 にっこり笑い、羽黒はさっさと拾っていく。小さく笑い「すいません。ありがとうございます」と言った。
 二人がかりのお陰か、書架から落ちたファイルは程なく元あった場所に返された。数が多ければ多いほど、そこには色んなところをたらい回しにされた揚げ句、日の目を見ない場所へと流された未解決事件の膨大さを羽黒は感じた。
 編纂室はそれらを纏めなければならないが、きっと終わることはないんじゃないか、と思う。良い人間もいれば、悪い人間もいる。守護霊や悪霊、呪いとかも存在するなら、現実的にもオカルト的にも世が安穏とすることはないだろう。事件が起きない日はない。
「このファイルのどれかには、先輩たちが解決したのもあるんですよね」
 ファイルの背を指でなぞりながら、羽黒が聞いた。
「ええ、まあ」と頷く純也は、「でもすべてが円満に解決した、とは言い難いですけどね」と付け加えた。
「防げたはずの犯行をみすみす許してしまったこともありますし。何より助けられなかった人もいた」
 ほんの少し後悔している声。羽黒は純也のほうを見る。純也は、切なそうにファイルで敷き詰められた書架を見つめていた。今まで遭遇した事件を思い返すように、瞳が痛みに揺らいでいる。羽黒からすれば、あまりお目にかかれない表情だ。
 途端、興味をそそられる。もともと風海純也と言う人間には興味があった。不可解な事件を常識に捕われず、時には心霊現象まで受け入れてしまう彼の話はいつかじっくり聞いてみたかった。
 幸い邪魔もいない。羽黒は何気ない風を装いながら「でも先輩はすごいと思いますよ」と言った。
「だって、今まで何度も危ない目にあったんでしょう? 鬼に放り投げられたとか。名前のない駅に迷いこんだとか。そうそうかの有名なフラワーオブジャックとも対決したんですよね!」
「実際対決したのは小暮さんなんですけどね……」
「でも、危ない目にあったのは確かじゃないですか。でもこうして編纂室に所属し続けている……。何がそんなに先輩の動力源になっちゃうのか、僕としてはちょっと気になっているんですけど」
「動力源?」
 首を捻る純也に「普通、それだけの危機にあっちゃったら逃げちゃいますよ」と羽黒は悪びれずに笑う。暗に普通じゃない、と言われ、一瞬純也は面食らうが言い返しても無駄だと踏んだのだろう。小さく溜め息を吐き「……そうですね」と思案する。
「真実を知りたいから、でしょうか」
「真実を、ですか?」
 言っちゃ悪いがありきたりだな、と羽黒は思った。この人らしいけど。
「事件をいくつか解決して思ったことなんですけどね」と純也は考え、慎重に言葉を続ける。
「真実を知ったところで、外に出せるものは少ない。でも事件に関わった僕たちだけでも知っておかなきゃいけないと思います。真実を知る僕たちがいることで、救われる人もいる。そんな人達の為にもやらなきゃいけないんだなって」
「それが先輩の頑張れる原動力ですか?」
「それもありますけど……」
「けど?」
 まだ続きがあるんだ、と羽黒は目を爛々とさせ、純也の方へ身を乗り出した。
「けど、何です?」
「…………」
 純也は口ごもって黙り――赤くなった。突然の変化に、答えを待っていた羽黒は驚いてしまう。この反応は想定外だ。
「先輩?」
 訝しむ羽黒に「え、いや」と純也はどもりながら首を振った。更なる追及から逃れるように、後ずさる。ますます怪しい。
「べ、別に深い意味はないですから。僕の答えはさっきで全てです! 手伝ってくれてありがとうございました!」
 早口で言い、純也は踵を返してそそくさとその場を去ってしまった。咄嗟のことで呆然とした羽黒は、遠ざかる純也の背中を見送る。
 錆びの擦れ合う音。どうやら外へ逃げたらしい。
 どうして理由を聞いただけでああなるのか。羽黒は不思議だった。そこまでの何かがあるんだろうか。
 しかし考えても答えは浮かばない。
「ファイルを読んでみたら、わかるかな……」
 ひとりごち、羽黒は純也が関わっていた事件のファイルを探し始める。
 このまま謎にしておくには、落ち着かなくなるから。