仕事を終えたぼくは、そのまま警視庁を出ず、入り口近くのロビーに足を運んだ。素早く視線を辺りに巡らせ、なるべく人目につかない隅にあるソファを見つけて座る。
 飲みに行きませんか。そう小暮さんに誘われていたが、用事があると断った。
 実はそれは嘘で、この後の時間はしっかり空いている。気にしないでくださいと笑う小暮さんに、少し良心が痛んだ。
 ごめんなさい。ぼくは内心今ごろ一人で帰ってるであろう小暮さんに手を合わせて謝る。次の機会に、こちらから奢らせてもらおう。
 嘘をついてまで誘いを断ったのは、ぼく自身他に誘いたい人がいるからだった。その人はぼくにとって非常に厄介で、気を引き締めて掛からなければならない。
 携帯電話を取り出し、アドレス帳を画面に表示させる。指はスムーズに動き、目的の人物の名前が出てくるまでに時間はかからなかった。
『兄さん』とぼく自身で登録した画面を、じっと見つめる。後はボタン一つで兄さんに繋がるけど、なかなか踏ん切りがつかない。
 携帯を持った手を膝に落とし、深呼吸する。
 事件が起こった時、都市伝説に関する知識を欲した時にはすぐ兄さんのところに行けるくせに、何も用事がない時は忙しいんじゃないかと遠慮する。自分の行動の極端さが恨めしい。
 兄さんなら、ぼくが電話かけても迷惑とか思わないだろうけど……。
 迷っているうちにも時間は過ぎていく。ぼくと同じように定時を過ぎた人達が、思い思いの足取りで庁舎を出ていくのが横目に見えた。
 このままじゃ埒があかない。ぼくは携帯を両手に持ち、胸の高さまで上げた。えいっ、と気合いを込めて通話ボタンを押す。どきどきと逸る心臓を宥め、緊張の面持ちで携帯を耳に当てた。
「――どうしたんだ、純也」
 携帯が繋がり、開口一番兄さんが誰何の言葉もなしに聞いてきた。やっぱり事件中にばかり兄さんのところに行ってるからか、連絡する=事件でぼくが困っている、の図式が兄さんのなかにあるんだろうか。携帯越しの声は心配そうだ。
「違うよ、兄さん」
 ぼくは首を振って「今日はもう上がったんだ」と横を見た。そこには、書類の入った鞄が置かれている。
「そうか」と安心したような声がした。いかにぼくが心配かけてるか感じさせるため息をついて「じゃあどうかしたのか」と改めて尋ねられる。
「うん。あのね兄さん――」
 ぼくは僅かに携帯を握る力を強くした。
「大したことじゃないけど、食事でもどうかなって」
 言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。頬が熱くなってきて、鏡に映したら、絶対真っ赤だと思う。
「前、兄さんが誘ってくれた時は、こっち事件だったし。結局行けずじまいだったから、どうかなって」
「そう言えばそんなこともあったな……」
 考えているのか、兄さんは黙り込んだ。いつもの煙草を吸っているようで、長く息を吐いている。
 ぼくは緊張したまま身体を固まらせ、兄さんの返事を待つ。短いはずの時間が、とても長く感じた。
「……純也。お前は明日仕事か?」
 兄さんに聞かれぼくは「ううん。明日は非番だよ」とすぐに答えた。ここで答えに詰まったら、チャンスを逃してしまう。
「だから、少しぐらいはお酒飲んだって平気だし、帰りが遅くても大丈夫だし。あ、兄さんの仕事が忙しいなら別に無理してぼくに付き合わなくても――」
 外したくはないと思っていても誘いに乗ってくれるか心配で、つい弱気になりかけたぼくの言葉を「構わないさ」と兄さんが遮った。
 無理だったら、ぼくに付き合わなくてもいいよ。そう言いかけていたぼくの口は兄さんの言葉に、そのままぽかんと開いてしまった。
 幻聴か? 自分の耳が信じられなくて、つい聞き返す。
「……いいの?」
「ああ、仕事はあるが、せっかくお前から誘われたんだ。どこか食事にでも行くか」
「うん。……うん。ありがとう、兄さん」
「大袈裟な奴だな」
 本心から告げた礼に、兄さんは苦笑じみた、けど優しさを含んだ声で言った。
「でも、まあ悪くない」
 通話を切り、携帯のフリップを閉じたぼくは深く息を吐いた。どれだけ緊張してたのか、握りしめていた手は汗で湿っている。
 兄さんは予想の範疇内と言うか、大学の研究室にいる。今回食事をする場所も、大学の近くにあるらしい。
 これから電車で最寄り駅まで乗って、大学で合流する形で待ち合わせることになった。
 腕時計で時間を確認すると、ロビーの片隅に座ってから、ほんの十分しか経っておらず、ぼくは驚く。さっきも思ったけど、もっと時間が経ったような感じがしていたから。
 難しいな、と思う。子供の頃は、一緒の布団で寝たり、兄さんの持っている本を読んでもらったりで、しょっちゅうひっついていたのに。成長していくうちに、自然とじゃれるようなことはしなくなっていた。勿論、いい大人が――とか、賀茂泉警部補に言われてしまいそうだけど。だけどぼくは、昔の自分を羨ましく思う。
 子供のころ、たやすく縮めていた距離は、大人になった今長かったのだと、兄さんと離れて始めて知った。とはいえ昔みたいにもう子供ではないぼくは、こうして一歩近づくだけでも相当の労力を使ってる。
 あの頃は、無邪気すぎた。
 兄さんもそっちから一歩――いや半歩でもいいから歩み寄ってくれればいいんだけど……。
 いや、何を言ってるんだぼくは。兄さんとぼくが同じようなことを考えてたりとかないだろう。ぼくは変な考えを振り払うように首を振って、ソファから立った。兄さんを待たせないように、移動しなきゃいけない。
 携帯をしまい、警視庁を出る。足は真っすぐ、駅の方へ。
 まず歩み寄るのならぼくのほうだ。子供みたいに駆け寄ることは難しくても、少しずつ一歩でも兄さんに近づかないと。その為に、小暮さんの誘いを嘘をついて断り、勇気を振り絞って、電話をかけたんだから。
 よし、と拳を握って小さく意気込む。駅に入って、帰り道とは違うホームに向かい、丁度入ってきた電車に飛び乗った。