ざわり、と肌が粟立つ。
ビルの隙間。ちょっとやそっとじゃ目につかない裏通り。切り裂かれた腹が、まるで火を押し当てられたように熱い。疼く痛みもあって、おちおち気絶もしてられない。
眉間に皺を寄せた僕は、倒れた恰好のままじっとしていた。下手に動いてその場を後にしているあちらさんに、僕が生きてるのを悟られるのもやばいし、治りだって遅くなる。
僕は目を閉じて、怪我をした腹部に意識を集中させた。普通なら致命傷になるそこからは、夥しい量の血が出て着ている服や地面を赤く濡らす。骨や内臓が見えてると思うと、今の僕を発見されちゃったら、口を手で覆いたくなるような惨状に映ることだろう。
死の瀬戸際に立っているのに、どうでもいいことを考える。普通なら、もっと考えることが違うんだろうけど。
仕方ないよね。
『僕』は普通じゃないんだから――。
ぴくり、と地面に伏せていた手が痙攣する。
すべての神経が腹部に集中するような感覚に、ああ、来たな、と僕は閉じる瞼に力を込めた。
「……くっ」
細胞ひとつひとつがざわめく。感じていた熱がさらに強く集まった気がして、今そこに触れたら火傷しそうだと思った。
熱い。熱い。痛い。苦しい――。
指で縋るように地面を引っかく。のけ反った喉はうまく呼吸出来なくて、苦しい。
我慢の限界に達し、僕は痛みを覚悟で腹に手を伸ばした。肉か内臓のどこかに触れるだろうと思っていた指は、しかし再生したばかりの皮膚にぶつかる。
もう、治ったんだ。考えていたよりも速く事が済んでいて、僕はほっとする。
……もう起き上がってもいいかな。周りに研ぎ澄ました意識を向けた。僕を殺した奴らの気配は遠ざかってる。遠くで走る車の音。工事現場でコンクリートを削っている重機。陽の下を歩く人達のざわめき。
そして陰の方――こっちに近づいてくる、誰かの足音。躊躇なく途切れないそれは、倒れている僕の枕元でぴったり止まった。
「また派手にやられたねえ」
笑みを含んだ声に、僕はずっと伏せていた瞼を開いた。
逆さまに、僕をこんな目に合わせた元々の原因が、視界に入る。にやついた笑みを隠しもせず、血まみれの僕を見下ろしていた。
「で、怪我は?」
「治りましたよ。まったくもう」
「そりゃ良かった。大事になんなくて」
「……」
嘘だ。こんなことになるって、彼は分かってる。分かってて、僕にその役目を投げたのだ。彼との付き合いは長いけど、面白がって事態を掻き回すことはどうにも好きになれそうにない。
ハズレしかないくじを引かされた気分になりながら、僕は身体を起こした。もう使い物にならない服で流れた血を拭うと、再生されたばかりの肌が見えた。ちょっと引き攣れて痛い。
「で、どうだった?」
尋ねられ、僕は答えた。
僕を切り裂いた相手は数人。僕が死んでいないのも知らずにべらべら喋ってくれたお陰で、彼が知りたがっていたことも聞けた。
手に入れた情報は、どうやら彼のお目がねに叶ったようだ。飄々とした笑みをさらに深くし「それはそれは、あちらさんも必死だねえ」と満足そうだ。
「で、道明寺センパイー。僕の役目も終わったんですよね」
彼――道明寺センパイに背を向けたままの恰好だった僕は、そのまま空を仰ぐように首をのけ反らせ、彼を見上げた。
道明寺センパイは頷き、僕を『殺した』奴らが消えた方を見た。
「向こうで野槌の方々がスタンバイしてるから。数日後には素敵な姿になって発見されるんじゃないかなぁ。可哀相に」
悪趣味。僕は口の中で呟く。あんなこと言ってる割に、顔は笑ったままだ。でも僕だってその素敵な姿になったアイツらが発見されて、どう噂が伝播し変わっていくのか興味があるから、人のことは言えない。オカルティックな噂になると面白いんだけど。
お疲れさん、と肩を叩かれ、地面に手をついた僕は立ち上がった。傷は治っても抜けた血は戻らないから、少し身体がよろめく。貧血になってるんだろうから、レバーとか食べるべきかな?
「またお願いするかもしれないから、そん時はよろしく」
「ええー」
「何、その嫌そうな顔」
「そうな、じゃなくて実際嫌なんです」
センパイの『お願い』に僕は子供っぽく頬を膨らませる。オカルトじみてるのは嬉しいけど、そこに行き着くまでの過程で、大低酷い目に遭うのが問題だ。
センパイが人を喰ったような顔で低く笑う。
「そう言うなって、お前さんはよくやってるんだ。それを買ってる訳だし――」
それに、と僕の腹部に目を向けた。
「死んだりしないんだ。安心して任せられるって信頼してるんだよ」
「死なないのはセンパイも一緒でしょ」
でもこっちに押し付けるんだから。僕は深く深く溜め息を吐いた。
僕は死なない。けど、だからって好んで死ぬようなことはしたくない。さっきの切り裂かれるような感覚にも、慣れたくない。
化け物に近い存在の僕が望むにはおこがましいだろうけど、やっぱり僕は『人』でありたいと思うから。
「……いやいや、若いってのはいいねえ。見てて恥ずかしくなる」
僕の考えを読んだのか、センパイは肩を竦めた。僕とは生きる年月の桁が違うせいか、達観した顔をしている。
「まぁとにかく、次もあったら頼むから」
僕の肩を叩き、センパイはその場を後にした。
すぐに掻き消える気配を確認し、空を仰ぐ。ビルの隙間から見える空はよく晴れていて青い。
僕は予め用意していた服を荷物から取り出し、手早く着替える。流れた血はそのままにした。どうせ片付けられないし、誰かが見つけたところで、せいぜい未解決事件となるだろう。そういう風に片付けられる。
僕は服の上から切り裂かれていた腹部を押さえた。そこにあったはずの傷はもう塞がっている。僕が人間とは掛け離れた存在である証。
だけど、やっぱり人として生きたい。闇に片足突っ込んでいる分、陽が恋しくなる。
まだふらつく足で、僕は歩き出す。少しでも早く影から抜け出して、陽の暖かさを自身の身体で味わいたかった。