時間が空き、ぼくはなんとなく顔が見たいと思って兄さんのいる須未乃大学に足を向けた。最近は急を要することばかりで来ていたから、たまにはのんびり話すのもいいかもと思っている。兄さんのほうに用事がなければ、そのまま夕飯も一緒に誘ってみようかな。
 そう思いながら訪れた研究室。当たり前のように積まれた本の山の向こう。いつもだったらまずそうに煙草を吸いながら出迎えてくれる兄さんは、何故か苦悶した表情で机に置かれた書類を睨みつけていた。ぼくが入ってきたことにも気づいていない。
 どうしたんだろう。ぼくは心配になった。兄さんは楽しそうに民俗学の論文を書くことは何度もあれど――あんな苦悶の表情を浮かべるのは初めてだ。
「兄さん」
 近づきながら声をかけると、ようやくぼくに気づいた兄さんが顔を上げた。
「ああ……純也か……」
「どうしたの。そんな顔して。研究がうまくいってないの?」
 崩れ落ちそうな本の山を周り、ぼくは兄さんの横に立った。睨んでいただろう書類に眼を落としたが、すかさず兄さんが裏返しにしてしまう。
「……兄さん?」
 訝しむぼくに兄さんはゆるく首を振り、指先でこめかみを押さえた。
「これは見ないほうがいい」
 兄さんが裏にした書類をすっとぼくから遠ざける。いよいよおかしいと思い、ぼくは「どうして」と尋ねた。この前電話した時、新しい都市伝説の発見に立ち会えるかも、と子供みたいにはしゃいでたのが嘘みたいだ。
 肘を机につき、指を組んだ手を額に当て兄さんは深い溜め息を吐いた。ぼそぼそ小さな声で「世の中知らないほうがいいものも本当にあるんだな」と呟く。
 どういう意味なんだろう。不安にかられ、ぼくは兄さんに詳しく話を聞こうとした。ぼくだって兄さんの役に立ちたい。
「しっつれいしまーっす!」
 その時大きな音を立てて扉が開き、ゆうかさんが研究室に入ってきた。首には使い込まれている愛用のデジカメ。どこか取材に行っていたのか、ぼくたちに歩みよった彼女の額はうっすら汗をかいている。
 ゆうかさんは獲物を狙う肉食動物のような眼をしてぼくを見た。気圧され、思わず僕は僅かに身体をのけ反らせた。
「……純也くん、今事件に巻き込まれてない?」
「え?」
「事件よ、事件っ!!」
 脳に響きそうな大声を上げ、ゆうかさんはぼくの腕を掴んだ。指が食い込んで、スーツを着ているのに痛い。
「ピュリッツァー賞取れるような特ダネ見つけないとあたしは……」
「ちょ、ちょっとゆうかさん……」
 駄目だ。興奮していて話を聞こうとしない。ぼくは少しでも落ち着いてもらおうと口を開いて――それより早く兄さんが重々しく「間宮くん」とゆうかさんを呼ぶ。
「少しは落ち着くべきだ。ほら純也も怖がってる」
「怖がってるって……酷いです先生! あたしは真剣に」
「君の気持ちはよくわかる。ここ数日で痛いほど思い知らされた」
「……兄さん?」
 兄さんの様子がおかしい。首を傾げるぼくに、兄さんは尚も続けた。
「相談にも乗ってやるし、俺のツテで色々当たってみてもいい」
「それ本当ですか!?」
 ゆうかさんが兄さんの言葉に食いつき、ようやく掴んでいたぼくの手を離した。まだ痛みが残っているから、袖を捲り上げたら痕が残ってそうな気がする。前にも手の痕がつく事件を思い出した。
 ゆうかさんに縋り付かれながら、兄さんは「ああ、約束しよう」と真剣な眼差しを向けた。
 そして、とても切実な声でゆうかさんに言う。
「だから君はしばらくスクーターに乗ってくれるな」