どちらかといえばそれはきっと、
いつものように自分の研究室で霧崎が本を読んでいると、扉を叩く音が聞こえてきた。顔を上げ、扉を見る。今度は控え目に叩く音がした。
霧崎は一瞬自分のゼミを取っている生徒――間宮ゆうかだと思っていたが、その考えを切り捨てた。有り余る元気を持つ彼女が、こんな風にノックをすることは、まずない。
「鍵は開いている」
と、入るよう促す。すると、扉が開いてそこから義理の弟である風海純也が顔を覗かせた。
「純也」
思ってもなかった人物の登場に、霧崎が本を閉じ、机に置いた。
「兄さん」と純也ははにかみ「今大丈夫かな?」と尋ねる。手に持っている荷物の中にあるファイルを見るに、調査をしている事件に関して相談ごとがあるのだろう。
警視庁の警察史編纂室に所属している純也は、一般とは一線を超えたような事件をよく受け持つ。そして霧崎自身も、それらの事件に関わったことが何度かあった。
不可解な自殺を遂げた女子高校生の影にちらつく、コックリさんの存在。罪もない人間を使い繰り広げられた悪魔の実験場の名残である、名前のない駅。それ以外にも純也は常識では計り知れない、様々な事件を調べてきている。こうして、霧崎の持つ知識を求め、勤めている須未乃大学に純也が来ることも、彼が編纂室に所属してから珍しいことではなくなった。
「――ああ。今なら空いてる。今度はどんなことを聞きに来たんだ、純也」
頷いて霧崎は席を立ち、ソファへと移動した。背凭れに腰を降ろし、純也を見る。
相談に乗ってくれるらしい霧崎に、純也はほっと息をつき、近寄った。
「えっと、これについて知りたいんだけど――――」
純也はファイルから数枚書類を取り、霧崎に差し出した。パソコンからプリントアウトしたそれをざっと読む。あらかた目を通したところで、「このところが気になるんだけど……」と純也が指差した箇所に目を向けた。
「ああ。これはな――」
霧崎は、的確に純也が知りたいだろうと考えられることを丁寧に教えた。決して簡単な内容ではないが、純也は真剣に聞いている。時たま質問をし、霧崎は問いに答える。そのやり取りを何度か繰り替えしていった。そしてふと霧崎は、顔を突き合わせて書類を見ているせいか、純也との距離が近いことに気がつく。間近で見る純也の表情は、先程と変わらず真剣そのものの顔をしていた。霧崎に聞いた情報を、口許を手で覆いながら吟味しつつ、己の知識として取り込もうと奮闘している。
霧崎は口許を上げ、純也の肩を叩くと立ち上がった。
「まぁ焦るな。コーヒーでも飲むか?」
「え? あ、うん……。それじゃお願いしようかな」
「砂糖だけでいいな?」
「うん。あ、多めがいいな」
「分かった」
ソファに座り書類を凝視する純也を横目に、霧崎は部屋の隅に置いてあるコーヒーメーカーの前に立つ。予め作っておいたコーヒーを、カップ二つに注ぎ、そのうちの一つへ砂糖を入れた。
本来、霧崎はコーヒーは何も入れない。だがここを訪れる純也の為に、いつしか砂糖を常備するようになってきていた。ゆうかは、「霧崎先生の部屋に砂糖があるなんて!」と驚いていたが、これも頻繁に純也が訪れるようになってから、珍しいことではない。
何だかんだと言われても、結局のところ自分は弟には、甘い。
自覚していることを改めて噛み締め、霧崎は苦笑した。
コーヒーを入れたカップを純也に渡し、霧崎は先程座っていた椅子へと腰を落ち着けた。苦味の効いたコーヒーを口に運びつつ、書類と睨み合う純也を見る。純也はコーヒーを飲みつつ、時折「もしかして」だとか「いや待てよ」とか呟き、深く考え込んでいる。恐らくは、頭の中で事件の事柄を整理しているんだろう。
事件を早く解決に導きこうと努力する――。
刑事として、純也の姿は、霧崎の目には好ましく映った。だが、根を詰めすぎてはいけない。平気だ、大丈夫だと頭では思っていても、身体はそれについて行くのに必死になる。ただでさえ理性と常識の淵で起こるような事件を追っていればなおのこと。
「純也」
霧崎はカップを机に置き、少し強めに純也を呼ぶ。
「何? 兄さん」
首を傾げ、純也もカップを応接机に置き、きょとんと霧崎を見た。
「頑張るのもいいが、少しは休んだらどうだ? あんまり寝てないだろう」
「そんなことないよ」
「それは嘘だな」
純也の言葉を、霧崎はすぐに切って捨てた。
「さっき近くで見たら、隈が出来てたぞ」
霧崎は指先で、自分の目元を、とんとんと軽く叩いて示した。咄嗟に目元を押さえる純也に、「鏡を見て来るか?」と続ける。
純也はしばし逡巡していたが、「いや、いいや」と首を振った。
「兄さんはつまらない嘘は言わないから。そう言ったんならそうなんだろうね」
純也は、書類を応接机に置いて、ソファに背凭れた。ふう、と疲れを吐き出すように息を吐く。
「これでも休んでるつもりなんだけどね……」
「純也の場合は、自分が大袈裟だと思えるぐらいが、丁度いいのかもな」
「そうかもね」
純也は小さく笑う。
「少し休め。焦って真実を見誤るほうが嫌だろう?」
「うん。そうするよ」
純也は素直に頷き、机に置いていた書類をファイルに纏めてしまった。そして両手でカップを包み持ち、ゆっくり口をつける。
分かっているが、やっぱり純也に甘くなってしまうな。もしこの様子を人見に見られたら、「甘やかすのは純也くんの為にならないわよ」と呆れられてしまうだろう。
――それでもいいさ。
霧崎は、心からそう思った。自分が純也に甘いことなど、ずっと前から承知している。
起伏に富んだ人生の中、純也に出会えたのは、霧崎にとって僥倖だった。両親を亡くし、風海家に引き取られていなかったら、きっとろくでもない人間になっていたに違いない。断言出来る。
それまで親戚の腫れ物を扱うような対応や、忌避の視線に晒されて、他人を信じられなくなっていた時、純也の純粋さに霧崎は救われていた。
生い立ちも何があったかも関係ない。ただ兄が出来たことを、無邪気に喜び懐いてくれた。
――それだけのこと。
だがそれが霧崎にとって、何より嬉しかった。
だから霧崎は血の繋がりなど関係なく、純也の良き兄でありたい。それで甘やかしていると言われようが、構うものか。
何があろうが俺は弟の味方で在ろう。
霧崎が心の底で根付いている思いは、まだ誰にも告げていない。もちろん純也にも。
それから、コーヒーを飲み終えた純也は、霧崎と他愛ない話をしたり、文献を読んで時間を潰した。
「それじゃあ、そろそろ帰るね」
そう言って純也が席を立ったのは、霧崎の講義が始まる時間にさしかかった頃だった。応接机に置いてある荷物を纏めて持ち、「今日はありがとう、兄さん」と純也は笑う。
「お陰で助かったよ。これで何とかなりそうだから」
「そうか」と霧崎は返した。純也の表情は、凛とした刑事のそれに戻っている。
「気をつけろよ。また前みたいに怪我とかしないようにな」
霧崎は、もしかしたら思い掛けない怪異に飛び込んでいくかもしれない純也に言った。
「分かってるよ。……過保護だなぁ」
心配する霧崎に、純也はふくれる。だが直ぐに機嫌を直して、持っていた荷物から紙袋を取り出した。
「――これ」
机へ歩み寄り、純也が霧崎にそれを差し出す。受け取り覗くと、ビニル袋に包装されたまま、未開封のワイシャツが数枚入っていた。
「いつも助かってるから、そのお礼に。兄さんのシャツ、いつ見てもよれよれなのばかりだし。少しぐらいは服装に気を使った方がいいよ」
確かに霧崎は、あまり服装に頓着しない方だ。人は人、自分は自分。口出しされる覚えはないが、折角弟がくれた贈り物を無下にするほど、馬鹿でもない。
「悪いな」と霧崎は礼を言って、紙袋の口を閉じた。
「今度純也が来た時にでも、袖を通そう」
「ぼくが来た時にでも、じゃなくて、いつもきちんとしてよ……」
純也は呆れ、そして「全く本当に兄さんは……」と、諦めたように頭を掻いて笑った。
「それじゃあ、これで」
「ああ」
霧崎は紙袋を机に置き、手を振った。純也もひらりと手を振り返し、部屋を出て行く。
扉が閉まるのを見届けてから、霧崎は口許を吊り上げた。純也がくれたワイシャツの入った紙袋を見つめ、何度も自覚していたことに、一つ言葉を付け加える。
――どうやら、甘いのは俺だけではなかったみたいだな。
それが満更でもないように笑みを深め、霧崎はそっと紙袋を指先で撫でた。