annoy




 純也の背広のポケットから、軽やかな電子音が振動と共に流れた。突然のことに肩を跳ね上げ、純也は携帯電話を手に取る。それを広げ、ディスプレイを見た彼の表情が怪訝なものへと変わり、横に居た道明寺は「どうしたんすか?」と首を傾げて訊ねた。
「いえ……。電話が掛かってきて。ちょっと失礼します」
「ああ、いいすよ」
 頷く道明寺に、純也は「すいません」と頭を下げ、その場を離れた。
 道明寺は純也に気付かれぬよう、そっと様子を窺う。純也は携帯電話を手に、出るか出まいか決めかねているようだった。
 何を迷う暇があるんだろうか。
 道明寺は不思議に思った。携帯電話に着信が来れば、ディスプレイに電話番号と、アドレスに登録してあるならその番号の持ち主の名前が出てくるはずだ。もし、見かけぬ番号だとして、悪戯か詐欺の類ならばさっさと切って、残った履歴から犯人を割り出せばいい話じゃないだろうか。
 遠くから様子を窺う道明寺に気付かない純也は、握りしめた携帯電話と空を困惑した目で交互に見ている。だが、やがて意を決したのか、携帯電話を耳に当て――――驚いて目を見開き、一瞬にして顔が綻んだ。困惑からのあまりの変貌ぶりに、思わず道明寺の興味心が引き立てられる。
 そっと気配を殺して、純也に近づき、気付かれないよう死角に立った。耳を澄まし、会話を聞く。悪いとは、ちっとも思っていない。悪いが、そこまで人が良い訳ではない。知りたいと思う欲求を満たしたいが為の行動だ。

「――――……それで、学会の方はうまくやってるの?」
 学会と言う単語に、道明寺は純也の電話の相手が、彼の義理の兄である霧崎水明だと分かった。同時に純也がなかなか電話に出ない理由も察しがつく。
 霧崎は今学会に赴く為、渡米中の身だ。海外から掛けられる彼の着信は『通知不可能』と出る。純也も流石に、電話番号も相手も分からない着信は取りにくいものだろう。――もしくは、『彼』からの電話だと思い、警戒したか。だが、こわごわと出た電話の相手が兄だと知り、緊張が解れたようだった。携帯電話の向こうの相手に対し、相槌を打ちながら、楽しそうに話を続けている。
「そう。ちゃんと進んでるみたいでよかった。え? あー……、ゆうかさん? うん、大丈夫。ちょっと勢いが強すぎるところがあるけれど、色々教えてくれて助かってる。さすがは兄さんの教え子――」
 言いかけた言葉が途切れる。少しの間があいてから、純也は肩を揺らして笑った。
「そんなことないよ。謝らなくても大丈夫だから。それよりも、学会の方しっかり頑張って。こっちも無事に事件を解決させるから。……うん。うん。ありがとう。期待しないで待ってるから」
 聞いているうちに、何となく腹が立つのは何故だろう。会話を聞いているうちに腹の辺りがもやもやして、道明寺はそこを押えた。
 鬼によって起きた誘拐事件を発端にし、出会った純也は、道明寺に対して完全に信用し切れていないらしく、未だに堅い態度を崩さない。
 それがどうだ。電話一本で、彼の義兄は呆気無く純也の笑顔を引き出した。
 打ち解けてこない純也の、兄に対してだけ見せる柔らかな笑み。そして、携帯電話で話すだけで、純也を安心させる霧崎。
 この場合、どっちに対して苛立っているんだろう。道明寺は神妙な顔で腹を擦る。もやもやは治まるどころか、一層酷くなっていくばかりだ。
「………………面白くないな」
 ぽつりと呟く。そして突然純也の後ろへ移動し「先輩! ちょっと来てくれませんか!?」とわざとらしく声を上げた。
 当然、いきなり呼ばれた純也は驚いて、道明寺を振り向く。不意をつけた形か、純也は素に近い表情をしていた。
 始めて見るそれに、道明寺は口元を上げた。もやもやはいつの間にかなくなり、代わりにじわりと満足感が広がっていく。
「早く早く!」と急かすと純也は「ごめん。急ぎが出来たから」と電話の向こうの霧崎に謝り、通話を切る。そして「どうしたんですか?」と緊迫して訊ねた。
 道明寺はわざととぼけて答える。
「お腹が空きません?」
「……はぁ?」
 何を言っているんだこの男は。とでも言いたそうに、眉を顰め純也は道明寺を見た。その顔は、思っていることがだだもれになっていて、容易く考えが読めた。
 だが道明寺は、それにあえて気付かないふりをし、純也の後ろに回り込んで、背中を押した。
「俺もう我慢できないんすよねー。だから、いつものところでご飯に行きましょーよ。俺ホットサンド奢りますから」
「ちょ、事件の方は……!」
「腹が減っては戦は出来ぬと言いますし! ほらほら」
「ちょ……。道明寺さん!」
 純也は怒鳴るが、道明寺は聞かず彼の背を押し続ける。純也の意識が自分に向けられることが嬉しく、道明寺はつい満面の笑みを浮かべた。