――俺には、苦手な奴がいる。
眼を覚ました時、目の前に立っていたのは、自分とそっくり同じ姿をした存在。さっきまで好き勝手なことを言っていたくせに、今は黙ったまま、こちらをじっと見つめている。
その言われた言葉の数々を思い出せば、蘇るのは恐怖。そして羞恥。自分はあんなことを思っていない。俺とアイツは違うんだ。
足をもつれさせながらも起き上がり、後ずさる俺を見たクマが、アレも俺の一部だと言った。それを認めなければ、さっきのように暴走するしかないのだと。
そんなことを言われたって、あんなことの後に、アレがもう一人の自分だと認められない。認めたら、アレが言っていたこと全部そのまま、俺自身の言葉だと、認めてしまうようなものだから。
もう一人の自分を前にしてそれを認めることも出来ず、ぐずぐずと渋る俺の背中に、後ろから無感情な声が突き刺さった。
「――誰だって、同じようなもんだ」
尤もだった。
俺と同じように、あの人も見えない一面を持っていた。誰にも言えないことを抱え、それでも表面では笑って、周りと自分を誤魔化して。
分かっているけど。それでもその言葉は、ずしんと心にきた。
口に出した本人からすれば慰めのつもりだったんだろうけど。その時の言葉をどんな気持ちで言ったのか、俺には分からない。
悪い奴じゃ、ないんだろうけども。何を考えているのか分からなくて、距離をとってしまう。
その時のことがあってから、俺はアイツのことが苦手になってしまった。
そしてそれは今も、続いている。
頭が痛い。
脳を突き刺すような痛みが広がって、沈んでいた意識を強制的に浮上させる。引き攣る声が喉から漏れ、眉をぎゅっと寄せた。
もがく指が床を引っ掻く。陽介はとうとう堪えきれなくなって、歯を食いしばりながら瞼を開けた。
「――あっ、気づいた!」
すぐ近くで声がする。だが、周囲に広がる霧が陽介の視界を白く鈍らせた。霧が深すぎて、満足に見えない。
「里中。眼鏡」
また別の声がする。その声に「あっ、そうだったね」と最初の声がして、「はいこれ」と陽介の手に何かを握らせる。
渡されたのは、オレンジ色のフレームをした眼鏡だった。ぼんやりとそれを眺め、陽介はようやく自分がいる場所を思い出す。そうだった。『ここ』は普通の場所じゃないんだったけか。
眼鏡をかけると、視界を遮っていた霧が綺麗に消えた。はっきりとものが見え、床に仰向けの上体になっていた陽介は、ゆっくり辺りに視線を巡らせる。
「もー、花村心配させないでよね」
すぐ傍で千枝が膝をつき、安堵しながら陽介の顔を覗き込む。
「シャドウに吹っ飛ばされるの見て、どうしようかと思ったんだから」
「シャドウ……。ああ、そっか。吹っ飛ばされたんだ、俺」
「うん。そりゃあもう、見事に頭をぶん殴られて」
道理で頭が痛むはずだ。ずきずきと誇張するような痛みに、吐き気がする。
痛みに表情を歪めたまま、陽介は床に手をつき直し、起き上がろうとした。だが、横から伸びてきた手が、肩を押えて阻んでくる。
咄嗟に手の伸びてきた方向を見ると、同じく眼鏡を掛けた灰色の眼と視線がぶつかった。
起き上がろうとした陽介を止めたのは、つい先日、稲羽市にやってきた転校生――橿宮日向だった。日向の感情の読めない虹彩に見つめられ、思わず陽介の背筋がぞわりとする。
「橿宮くん?」
「まだ起きるな。頭、ぶつけてるから」
「あ、そっか。無理に動かすのは危ないよね……。でも」
困ったように千枝は頭を捻る。
「怪我してる花村にペルソナ使わせる訳にはいかないし。あたしのトモエは怪我治す技とか持ってないし……。橿宮くんのもだよね?」
傷薬かなぁ、と呟きポケットを探る千枝に「大丈夫」と日向が制した。陽介の肩を押えていた手を離し、掌を上にした右手を軽く前に差し出す。
「俺が治す」
「――え?」
きょとんとした千枝の眼が、驚いて丸くなった。
ふわりと虚空に現れた一枚のカード。ゆっくり回転しながら、差し出した日向の掌へと落ちていく。青白く淡い光をまき散らすそれには、二枚羽を持った妖精が描かれていた。それは、本来彼が持っているペルソナとはまた、違ったもの。
「ピクシー」
日向がカードを握りしめて砕いた。呆気無く砕けたカードは、光の粒子となって消え、代わりに描かれていた妖精が、そっくりそのまま姿を表す。
それを見て、すごーい、と千枝が拍手した。
妖精は羽を羽ばたかせ、陽介に向けて両手を高く掲げた。すると、陽介を苛ませている痛みが、嘘みたいに消えてなくなっていく。
役目を終えたと言わんばかりに妖精は、そのまま消え、精神を集中させていた日向がふう、と息を吐いた。
「痛い?」
短く尋ねられ、呆然と日向の一挙を見ていた陽介は「あ、ああ」と声を引っ掛からせながら答えた。
そう、と頷き日向は陽介に手を差し伸べる。陽介がその手を掴むと、引き上げられるように助け起こされた。床を踏み締める足もふらつかない。治癒はちゃんと効いたようで、もうどこも痛くなった。
「すごい、橿宮くん」
立ち上がった千枝が、スカートの汚れを払い落としながら、尊敬の眼差しを日向に向ける。
「さっきのペルソナ、今まで君が使ってたのとはまた違ってたけど……。もしかして、複数使えるとか!?」
「多分」
興奮気味の千枝とは対称的に、日向が無感情に頷いた。その答えに、ますます千枝はすっげー! と感情を高揚させる。
「何か、橿宮くんがいたら、すぐにでも雪子を助けられるような気がしてきた……! もうすぐ天気が崩れるみたいだし、急がないと」
「そうだよな……」
陽介は呟きながら、改めて辺りを見回した。
華美な細工が施された柱や窓。格子柄の床に敷かれた絨毯。城を思わせるこの場所は、至る所に赤が使われている。
この『場所』をつくり出した雪子も、赤色を好んで身につけていた。大好きな親友が、赤が似合うね、と言ってくれたから。
意味のなかった自分を見てくれたと、そう想っている彼女が、ここを作り出したのだと思えば、赤を基調としたことにも納得がいく。
だってここは、テレビの中にある異世界。
――入った人間の『現実』が、形となって現れる場所、なのだから。
平和なのが取り柄だった稲羽市で突如起きた殺人事件。
陽介たちはふとした切っ掛けで、警察が知り得ないことを知ってしまった。
テレビに入れる力を持った人間が、その力を使い、人をテレビに放り込む。入れられた人間は、テレビから出られないまま異世界を彷徨い続け、稲羽市で霧が出る日――異世界では霧が晴れた時――抑圧された人間の精神、シャドウによって殺されてしまう。
それを防ぐには、霧が出る前に疾走した被害者を探して救出しなければならない。そして普段は霧が立ち篭める世界に徘徊するシャドウに対抗出来るのは、ペルソナの能力を持つ人間だけ。
そして今、第三の被害者であり、八十神高校の同級生でもある天城雪子が、テレビの中の世界に入れられて、行方をくらましていた。
もし、それを警察に言ったとしても、テレビの中の世界など、信じてくれないだろう。だから陽介たちは日向をリーダーとした特別捜査隊を独自に作り上げ、雪子を助けようと、奮闘している。
のだが。
……どうもよく分っかんねえんだよな、アイツ。
打ち付けた頭の箇所を擦りながら、陽介は千枝と話している日向を見遣った。とは言え、千枝が一方的に話し、それに日向が相槌を打っているだけだが。
観察するようにじっと見つめ、やっぱりよく分からん、と陽介は悩む。橿宮日向という男は、いつでも無表情すぎて何を考えているのか、判別し辛い。
「――ええっ!?」
突然千枝が叫び、信じられないように日向を凝視した。
「今日はここで切り上げるって……。あたしはまだ全然いけるよ! 花村だってそうだよね!?」
きっときつい視線を向けられ、気圧された陽介もつい頷いてしまう。
千枝の気持ちは分からないでもなかった。大切な親友が、もしかしたら連続殺人の被害者になってしまう。霧が出る前に助けなければ、とそれだけで目の前が一杯になり、雪子の元へ急ごうと必死になっている。多少の疲れぐらいで、帰る訳にはいかないんだろう。
これ以上被害者を出したくないのは、陽介も同じだった。
もうすぐ天気が崩れる。霧が出たら、全てがおしまいだった。
しかし日向は「駄目」と首を縦に振らない。
「里中も大分消耗している。それに花村も治したとは言え、頭を強くぶつけているから。これ以上進むのは危険だ」
「でも」
『――クマももう止めた方がいいと思うクマ』
食い下がる千枝の言葉を遮るように、どこからともなく声が辺りに響いた。ここにいる誰とも違う声。
「……クマ?」
自分達しかいないと分かっていても、つい陽介は宙を仰ぐ。それにつられて千枝も顔を上げ「クマくんも橿宮くんの味方なの……?」と腰に手を当て口を尖らせる。
『違うクマよ』
クマと呼ばれた声が慌てて否定した。
『味方とかそう言う問題じゃないクマ。クマ、今日もずーっとセンセイたちをサポートしてきたけども、チエチャンもヨースケも動きにキレがなくなってるクマ。だからヨースケもさっきシャドウにやられたんじゃないクマか?』
「ぐっ……」
たった今まで気絶していた陽介には、反論の余地がない。視線を彷徨わせ、気まずさを誤魔化すように俯いて頬を掻く。
「でも……雪子が……」
『無理してやられちゃったら、それこそユキチャン助けられないクマよ』
諦めきれず、両手を悔しそうに握りしめる千枝を、慰めるようにクマが言った。
『センセイも心配して言ってるクマよ。ね、センセイ』
クマの言葉に、こくりと日向が頷いた。
本当にそう思っているのか。表情から読み取れず、つい陽介は勘ぐり、そして自分が嫌になる。
仕方がない。このまま押し問答が続けば、進む話が進まなくなってしまう。
溜め息混じりに「……戻るか」と提案した途端「花村!?」と千枝が眼を剥いた。
「悔しいけど、クマの言う通りだろ。ここで焦って俺たちがやられたら、誰が天城を助けるんだよ。里中だって、確実に天城を助けたいだろ?」
「それは、そうだけど……」
「今日はこれで切り上げて、ちゃんと休もう。でまた明日仕切り直し。……これでいいか?」
「うん」
日向は頷き、制服のポケットに手を突っ込み、帰還する為のアイテムを探し始める。
雪子、と親友を案じて、心配そうに千枝が呟く。心細いそれを聞きながら、陽介は腕を組み、淡々としている日向を憮然と見つめていた。
雪子が作り出した城から脱出した陽介たちは、待っていたクマに出迎えられた。ぴこぴこと気の抜けるような足音を立て「おかえりクマ!」と着ぐるみの両手を広げ、帰還を喜ぶ。
「心配したクマよー」
「うん」
日向は近づいてきたクマの頭を撫でた。
「入り口まで頼む」
「分かったクマ!」
クマは大きく頷き、こっちクマ、と元来た道を先導する。マスコットのような形に、可愛らしい動きをしているが、その中身はからっぽだと思うと、どんな不思議生物だよ、と陽介は思う。そもそもこのテレビの中の世界自体不思議なのだから、なんでもありかもしれないが。
「花村どしたの?」
日向たちから少し後ろに離れてついていく陽介に、その中間を歩いていた千枝が振り向いた。立ち止まり、陽介が追い付くのを待って、歩みを再開させる。
「なーんか、難しい顔しちゃってさ」
「あー……」
唸るような声を上げ「俺さ、分からないんだよね」とつい本音を零す。
「分からないって、橿宮くんのこと?」
んー、と千枝も指を顎に当て、難しく考え込む。
「確かに、ちょっと不思議な人だよね」
「不思議どころじゃねーだろ。俺はテレビに自ら頭を突っ込む奴なんて初めて見たぞ」
初めてテレビに入った時のことを思い出す。日向が、徐にテレビに腕を入れていき、よせばいいのに自分から頭まで突っ込んでくれた。あの時は戦戦としたものだ。今まで無愛想で、端的な受け答えしかしなかったのに、どうしてそこで妙に大胆になるのか。そうなる基準でもあるんだろうか。
「ギャップが結構激しいよね。無愛想なところもあるけど。でもだからって冷たい訳じゃないし……」
うーん、と腕を組み、千枝は頭を捻る。
「……あーゆうのを天然系の魅力、って言うんじゃないのかな?」
「それ褒め言葉じゃねーし」
考えた末の脳天気な例えに陽介は呆れた。
「でも悪い人じゃないでしょ」
千枝がちらりと陽介を横目で見た。
「じゃなきゃ、アンタがあたしと同じ時になった時、助けたりしないと思うけど」
「う……」
言葉を濁し、陽介は明後日の方向に顔を向けた。これはあまりよろしくない方向に話が進んでいる。
「ていうかさ、いい加減アンタの時、どんな風だったか教えなさいよ」
悪い予感は的中した。千枝は眼を鋭く光らせ、陽介に詰め寄ってくる。
テレビの中の世界で徘徊しているシャドウは、もともと人間の抑圧された精神の一部が怪物になったもの。それを生み出した本人が、それを拒絶した時、シャドウは宿主に襲いかかる。
陽介も千枝も、テレビの中の世界でもう一人の自分――シャドウと会い、それを否定して襲われた。しかし仲間がシャドウを撃ち破り、自分でもう一人の自分を受け入れることによって、ペルソナ能力を手に入れている。
千枝は陽介と日向に、今までひた隠しにしてきた一面を見られたことを恥ずかしがり、陽介のはどんなのだったか、としつこく聞いてきた。向こうはこっちのを知っているのに、こっちは向こうのを知らないだなんて不公平だと、耳にたこが出来そうなほど聞かされている。
「別にどんなんでもいいだろ。お前と同じようなもんだったって、何回も言ってんじゃん」
「でも直接見たかどうかの違いは大きいんだって! あの時のことを思い出すと、もうめっちゃくちゃ恥ずかしいんだから!」
そう口に出した途端、思い出したらしい。千枝は赤くなった頬を、両手で覆った。
確かに千枝の影と相対した時、曝け出された一面は、強烈なものだった。しかし、それは誰だって持っているものだ。いつもは隠しているから見えないだけで、みんな心の奥底に同じようなものを、抱えている。
シャドウはそんな抱えているものが、形になったものだ。誰にも見せたくない一面が目の前に自分の姿をとって現れ、内面を吐露する。ずっと隠してきた本人からすれば、耐えられないだろう。
「だーかーらー、花村のも吐け! 教えろ!」
「何でそう言う流れになんだよ!」
「だって道連れ欲しいじゃん!」
自棄になっているらしい。千枝はどうにか聞き出そうと陽介ににじり寄ってくる。魔の手から逃げ、陽介は日向たちの方へと走って逃げた。卑怯者! と叫ぶ千枝の声を、指で耳を塞ぎやり過ごす。
「なーに騒いでるクマか」
騒ぎが聞こえたのか、クマが振り返って尋ねた。
「何でもねーよ。ほら、それよりも早く帰ろーぜ」
ぽんぽんと乱暴にクマの頭を叩きながら、陽介は日向を盗み見た。黙々と歩く日向の表情からは、相変わらず何を考えているのか、判別不可能だ。
あまりの無表情さに、どう言葉をかければいいのか、困る。
――やっぱり苦手だ。
そう思いながら、陽介はこっそり溜め息を吐いた。