テレビの中の世界は、入り口広場からいくつも通路が伸びている。その内の一つへ続く階段に千枝は日向と並んで座った。思っていたより身体が重くて疲れているのは、初めて誰かと一緒に修業をしたせいだろうか。嬉しさから無意識にはしゃいでいたようだった。
「はい」と横から日向がペットボトルのお茶を差し出した。目を丸くする千枝に「もうだいぶ温いけど」と手渡す。
「ううん、ありがと」
千枝はありがたく日向の厚意を受け取った。陽介と話をしなきゃ、と考えていたせいで、修業での水分補給をすっかり失念していた。
「センセイ、クマには何かなーい?」
羨ましそうな声で言い、近づいてくるクマに「クマにはこれ」と日向が飴を二つ取り出した。百円玉を出してもお釣りがくる安いものだったが、クマは「センセイありがと!」と受け取ってはしゃいだ。
「準備いいねー」
「クマの性格を考えれば予測できたことだから」
階段近くの床に座り、手の平に乗せた飴玉を目を輝かせて見つめるクマに、日向は微かに笑ってペットボトルの蓋を開ける。
いただきます、と千枝もさっそく蓋を開けた。身体は水分を随分欲していたらしい。口をつけると中身のお茶を一気に半分以上飲み干してしまった。
「ふーっ、生き返るなあ」
手で口を拭う千枝に「里中はしゃいでから」と日向もペットボトルに口をつける。
「でもちゃんと身につく教え方ですごかった。これならシャドウ相手にもやれるかもしれない」
「まあね」
千枝は得意げに言った。
「ちっちゃい頃からたっくさん映画とか見てきたし」
映画の見よう見真似から蹴り技を始めたが、シャドウとの戦いでも十分通用する、と今までの戦いから実感している。今まで家で練習して障子や壁に穴を開けては何の役に立つんだ、と怒られていたが、これできちんと役に立っていることが立証出来た。それを仲間以外に言えないことだけど。
「橿宮くん筋いーよ。あたしが保証したげる」
千枝は日向の背中をぽんぽんと叩いて褒めた。飲み込みも早いし、ちょっと悔しいがこちらより体型もいい。十分練習すれば威力のある蹴りを放てるだろう。
素直な賛辞に「ありがとう」と日向がはにかんだ。
「里中にそこまで言ってもらえたら自信がつく」
「うん。お墨付きだし!」
日向につられて笑い、千枝はやっぱり橿宮くんはいい人だな、と改めて思った。女の子でカンフーが好き、だと言うと大抵は変な顔をされるが、日向は違った。肯定気味に受け止めてくれただけじゃなく、こうして修業にまで付き合ってくれるなんて、初めてだ。
こうしてお茶をくれたりして気遣ってくれる優しさもある。
筋がいいと褒められ笑う表情は、何を考えているかわからない、と言っていた陽介の言葉からは掛け離れていて。
「……どうして花村はあんなこと言うかな」
「花村?」
ごく小さな声で呟いたつもりだったが、日向は今はいない陽介に対する千枝のぼやきを拾いあげたらしい。飲んでいたペットボトルから口を離し「花村がどうかしたのか?」と首を傾げた。
「えっ、いや、あのー……」
指摘され、千枝はしどろもどろになった。まさか原因が日向のことだとは彼自身思ってもないだろう。
うまくごまかさないと、と思うのに言葉が出てこない。
だがすぐ否定しなかったのがまずかった。日向の眉が潜められてしまう。
「ケンカでもした? 食料品売場でもめてたみたいだけど」
「いや、ケンカってほどでもないけど……」
どう言えばいいかな。あらぬ方向に話が曲がらないよう思案する千枝は、ふと日向の言葉に引っ掛かりを感じた。
「……ん? あたしが食料品売場で花村と会ってたの、橿宮くんどうして知ってんの?」
日向と待ち合わせた場所は屋上のフードコートだ。食料品売場で彼の姿は見ていない。だが日向は、その場に鉢合わせていなければ知らないことを口にしている。
ペットボトルのラベルを見た千枝は「あ」と声を上げた。上部にジュネスオリジナル商品のマークがある。
千枝は顔を上げ「もしかしてあたしと花村が話してたの見てた?」と確信を持って尋ねた。
日向が気まずく千枝から顔を反らした。
「邪魔しちゃ悪いと思って」
「だーかーら、そんなんじゃないっての!」
男女二人でいると、付き合ってるだとかいないとか、そういう方向にどうして進んでしまうんだろう。陽介といい日向といい、穿った見方に千枝は肩を落として辟易する。
ありありと不満を表す千枝に「……ごめん」と日向が謝った。
「ホントだよ」と千枝がむくれる。
「あたしと花村はそんなんじゃないし。てかみんな見れば分かんのにさ」
はあああ、と千枝は深い溜め息を吐いてうなだれる。すると日向が瞬きし「みんなって?」と素朴な質問をする。
「橿宮くんにも花村もきみと同じ転校生だって言ったよね。そん時あたしのクラスに花村来たの」
千枝はうんざりした顔で半年前を思い返した。
陽介が稲羽に転校して来た時も、八十神高校ではちょっとした騒ぎになっている。
今度出来るジュネスの店長の息子。
千枝は日向が転校して来たの時同様、その時も陽介がどんな人物なのか話しかけた。ノリが軽いし、たまに下世話なことも言われたりしたが、それを除けば割とウマもあい、打ち解けるのも早かった。
「よく話したりもするからさ、何回かクラスの子にからかわれちゃって」
その度に千枝は怒って否定して。そして陽介は。
「……あ」
千枝は囃し立てられた時の陽介を思い出す。表情は笑っているはずなのに、目が笑っていない。どこか蔑んだ目。
それは最近日向にむけているものと同じ。
「……そっか、戻ってるんだ」
転校したての陽介は相手を見て、接し方を変えていた。敵意を向ける人間に対しては無関心を決め込んでいて。
正に今、日向にしていることと同じだ。なるべく必要以上に関わろうとしない。
でもどうしてだろう。千枝には日向がそうされる理由が全く見えてこない。
だって橿宮くんはあたしを――。
「……」
「里中?」
急に黙ってしまった千枝を日向が呼んだ。
「おなか痛いクマか?」
飴に夢中になっていたクマも、千枝の様子に立ち上がり心配そうに呼ぶが声は届かない。
こっちは最初から二人の傍にいた訳じゃない。雪子のことがなければ、こんな得体の知れない世界に来たくもなかった。もちろん今は違うけど。
あたしが仲間に入るまでの間、二人に何があったんだろう。少なくとも、初めてジュネスに三人で行ったときは、陽介も日向を避けたりしなかった。
どうして。どうして。どうして。
元々考えるのは苦手な性分だ。千枝の頭は色んな考えと感情が混ざり合い、許容範囲を超えていく。ぎゅっと握りしめた手が小刻みに震えた。
「あー、もうわからんっ!」
突然頭を抱えて立ち上がった千枝の叫びに、日向が目を丸くした。千枝の目の前に立っていたクマが、ひゃっと勢いに押され後ろへ転がる。
「気に入らないところがあるんならはっきり言えっての!」
無茶を言っているのは承知だったが、もしここに陽介がいたら、無理矢理吐き出させてやりたい気分だ。
「チ、チエチャンが壊れちゃったクマー!」
手足をじたばた動かしながらクマがもがいた。自力で起き上がれないクマを日向が助け起こし「落ち着け」と千枝の肩を叩く。
「あっ……」
我に返った千枝は醜態を見せてしまった恥ずかしさに赤面し、そそくさと座り直した。
「ごめん。最近ちょっと考えちゃうことがあって。でも煮詰まっちゃってさ……」
伸ばした脚に手を乗せて、千枝はちらりと日向を横目で見た。不思議そうに見返す薄く灰色がちな眼。
千枝は思い切って口を開いた。
「橿宮くんはさ」
「うん」
「花村のこと、どう思ってんの?」
「――え?」
突然の質問に、日向は虚をつかれたような顔をする。真剣な眼差しで答えを待つ千枝から一瞬目を反らした。
「……クマ?」
一人状況についていけないクマが、黙る二人を順番に見て首を傾げる。
やがてゆっくりと日向が答えた。
「……別に悪い奴じゃないと思うけど」
「でも花村はそうじゃないって思ってるよね」
日向が僅かに見せた動揺から、彼は陽介に避けられていることを自覚していると千枝は感じた。でなければさっき目を反らしたりしない。
「……悪い奴じゃないと思っているのは本当だ」
それに、と日向がぽつりと付け加える。
「なんとなく花村が素っ気ない原因、わかってる」
「え……?」
意味をとっさに捉えかね、呆然と千枝は日向を見た。原因がわかっているのにどうして。
「だったら、どうにかしたり出来るんじゃないの……?」
だが日向が行動に移している気配はない。このままでは歩み寄ることすら不可能だ。
「俺も」
首の後ろへ手をやり、日向が俯いた。
「このままじゃまずいって思ってる。……色々」
「じゃあどうして?」
「……俺、転校が多いって里中に言ったと思うけど」
千枝は頷く。転校初日に珍しい転校生への興味も手伝って、一緒に帰ろうと誘って下校した時、確かにそんなことを聞いた。
「その転校が多すぎたせいか、友達とか出来てもすぐさよならで。いつからだろうな。……だんだん作らない方がいい気がしたんだ。それで誰かと話したりするのも少なくなってきて」
日向は寂しそうに眼を細めた。
「……だから、下手になったんだな、話すことが。俺の発言で誰かを怒らせることが何回もあったから。だけど俺はすぐに転校するから。仲直りしようとか思わないでそのままにしてきた。そのつけが、今来たらしい」
自嘲ぎみに笑い、日向は肩を竦める。
「どう接したらいいかわからないんだ、花村と」
「……こう言うの自業自得って言うのかな」と言う日向の横顔に、千枝はどこかで似たようなものを見た気がした。どこだろう。すごく大切なことなのに。
記憶の糸を辿る千枝に「ごめん」と日向が謝った。
「……え、何で謝んの?」
デリケートな問題に無遠慮な方法で足を突っ込んでいるのはこっちだ。謝られる謂れはない。
「これは里中が気に病むことじゃなかったのに。でも」
僅かに日向の口元が上がる。
「これ以上事態が拗れないようにはするつもりだ。事件のこともあるし」
「……」
日向の言葉にも一理ある。元々は日向と陽介の問題に首を突っ込んでいるのはこっちだ。
だけど、何かが違う。
それを言葉にしたいのに、口がうまく動かないもどかしさ。それでも千枝は何か言わなきゃと口を開いたが、半分飲み残したペットボトルの蓋を閉めた日向が立ったことで阻まれる。
「帰ろうか」
傍らに置いていたスポーツバッグを肩にかけ、日向が呆然とする。
「もう修業って気分じゃないだろ里中も」
「ちょ……」
このままじゃ、話が打ち切られてしまう。慌てた千枝は腰を浮かせた。まだこっちは全然納得していない。
だが憎らしいほどに空気が読めないクマが「センセイ帰っちゃうクマかー?」と日向に抱き着いた。
「クマ今日も寂しんボーイなの?」
「また来るから」
優しくクマの頭を撫で日向は二つの世界を繋ぐテレビに向き合う。
立ち尽くした千枝を見て言った。
「帰ろう」
千枝にはその言葉がこれ以上詮索しても駄目だ、と言っているように聞こえた。悔しいが、千枝はこの場で日向を論破することは無理だと悟る。
何かがおかしいと思うのに、言えない自分が悔しかった。